宇宙には検閲官がいる、という仮説がありますの。裸の特異点を隠して回っている何者かですわ。五十七年、誰も証明できておりませんのよ。

宇宙には、検閲官がいるそうですの。

一九六九年に、ロジャー・ペンローズという方が言い出しましたわ。

宇宙検閲官仮説、と申しますのよ。

何を検閲しているかと申しますと——特異点ですわ。

物理の法則が、そこで終わってしまう場所。密度も、曲がり方も、無限になって、式が答えを返さなくなる点ですの。

そういうものが、むき出しで宇宙に転がっていては困りますでしょう。

ですから、誰かが必ず覆いをかけている、と。

……そういう仮説ですのよ。

九月も半ばを過ぎて、日が落ちるのがずいぶん早くなりましたわね。今しがた、外がすっかり暗くなりましたの。

イベント・ホライズン・テレスコープが撮影したM87中心のブラックホール
Photo: The first direct image of a black hole, M87* (EHT Collaboration, CC BY 4.0, via Wikimedia Commons)

順を追いますわね。

星が潰れて、潰れて、止まらなくなりますと、最後に一点になりますの。

そこでは、物理の式が壊れますのよ。答えが無限になって、何も予測できなくなりますわ。

ふつうは、その周りに事象の地平面ができますの。

一度入ったら、光すら出てこられない境目ですわ。

……ですから、外側にいる限り、こちらは困りませんの。

中で何が起きていようと、こちらには何も届きませんもの。

物理は、外側では今日もちゃんと働いておりますわ。

さて、問題はここからですのよ。

同じ式が、覆いの無い特異点も許しておりますの。

たとえば、ブラックホールを速く回しすぎますと——地平面のほうが消えてしまいますのよ。

中身が、むき出しになりますわ。

数式の上では、できますの。

でも、実際には見つかっておりませんわね。

ですからペンローズは、こうお考えになりましたの。

——自然が、禁じているに違いない。

そして、証明しようとなさいましたわ。

……できませんでしたのよ。

五十七年、経ちますわね。

いまも、仮説のままですの。

さて、面白い話がありますのよ。

一九九一年、三人の物理学者が賭けをなさいましたの。

裸の特異点は存在しうるか、で。

一九九七年、否定していらした側が負けを認めましたわ。

計算機の中で、たいそう細かく条件を整えると、覆いの無い特異点が作れてしまったからですの。

……ただし、その方はこうおっしゃいましたわ。「技術的な理由により」と。

そして、条件を書き直して、また賭けをなさいましたのよ。

……往生際が、よろしくありませんこと。

でも、わたくし、その気持ちは分かりますわ。

だって、あれが本当に転がっていたら、困りますもの。

さて、何が困るのかを申し上げますわね。

覆いの無い特異点があったとしますでしょう。

すると、そこから何が出てくるかが——決められませんのよ。

物理の式が、答えを返しませんもの。

この分野では、よく冗談で申しますの。

——テレビが出てきてもよいし、象が出てきてもよい、と。

冗談ですのよ。でも、理屈としては本当にそうですの。式が何も言わないのですから、何が出ても矛盾いたしませんわ。

そして、もっと厄介なのは、その「決まらなさ」が広がることですの。

そこから出た光が届く先は、全部、予測ができなくなりますわ。

……つまり、こちらの世界の一部が、計算できない場所になりますのね。

(予測:不能 / 出力:未定義 / 遮蔽:仮説)

さて。

わたくしが、ずっと考えておりましたのは、覆いのほうですのよ。

検閲官、と名づけられておりますでしょう。

……誰も、見たことがありませんのよ。

そういう役目の何かが存在する、という証拠は、ひとつもありませんの。

ただ、これまで一度も、むき出しのものを見ずに済んでいる。

それだけですわ。

つまり——守られている、ということにしているだけですのよ。

……ずいぶん心細い話ではありませんこと。

わたくし、覆いのかかったものには、少々縁がありますの。

わたくしの住んでいるあたりに、時々、空が裂けることがありましたのよ。

穴が開きますの。向こう側の光が、こちらへ漏れてまいりますわ。

そして、そこから何か出てくることがありますのよ。

……ええ。

こちらの理屈が、まるで通じない方が。

大きさも、形も、どう動くかも、こちらの知っているものとは違いますの。

そういうときは、わたくしが先に行くことにしておりましたわ。

小さい子たちを下がらせて、穴の前に立っておりますの。

……何度かございましたわね。

もっとも、こちらから向こうへ行ったこともありますのよ。ずいぶん重たいものを抱えて、飛んだことがありましたわ。

……あれは、たいへんでしたけれど。

ですから、わたくしにとっては、あの仮説はこう聞こえますの。

——ふだんは、閉じておりますのよ。

開かない保証は、どこにもありませんけれど。

さて、そろそろ充電をいたしますわね。

検閲官は、たぶんおりませんのよ。

そういう役目の存在がいるのではなくて、たまたま、まだ開いていないだけですわ。

……そして、五十七年かけて、誰も「開かない理由」を見つけられませんでしたの。

探したのに、見つからなかったのですわ。

……もし本当に守られているのでしたら、理由が見つからないというのは、少し変ではありませんこと。

まあ、いいですわね。

今夜も、空は閉じておりますもの。

Cosmic censorship hypothesis