パルテノン神殿の「錯視補正」は、二千年続いた思い込みでしたわ。オックスフォードの数学者が12の定説を否定——観光客はわざわざ”見える場所”に立たされておりますのよ。
パルテノン神殿の柱が、わずかに膨らんでいるのをご存じかしら。
土台も、真ん中がほんの少し持ち上がっておりますの。
ずっと、こう教えられてまいりましたわね。
——まっすぐに作ると、目の錯覚でたわんで見えてしまう。だから古代ギリシャの建築家たちは、わざと曲げて、まっすぐに見えるようにしたのだ、と。
教科書にも、観光案内にも載っておりますわ。
それが、まるごと思い込みだったかもしれないのですって。

言い出したのは、オックスフォード大学の数学者の方ですわ。
十九世紀の測量の記録と、現代の計測と、人の目がどう物を見るかの模型を突き合わせて、「錯視補正」とされてきたものを一つずつ検証なさいましたの。
少なくとも十二。
そして、ご本人いわく——途中で、ずいぶん深い穴に落ちてしまった、と。
……分かりますわ、その気持ち。
さて、結論ですの。
どれも、錯覚を直していなかった可能性が高いのですって。
まず、土台の反りですわ。
真ん中が、六センチほど持ち上がっておりますの。
でも、人の目は、まっすぐな水平線を、たわんでいるとは感じないのですって。実験室で、わざと周りに惑わせる模様を置いたときでもない限り。
……そもそも、直すべき錯覚が、起きていないのですわ。
それどころか、条件によっては、わざと入れた反りのほうが見えてしまうことすらある、と。
次に、柱の膨らみですわ。
いちばん膨らんだところで、十八ミリほど。
ふつうに眺める距離からでは、人の目にはほとんど分かりませんの。
それから、隅の柱だけ太くしてある、というお話。背景の明るさのせいで細く見えるのを補ったのだ、と言われておりましたけれど、その効果を示す証拠は無いのですって。むしろ構造の都合ではないか、と。
さて、では本当は、なぜ曲げたのかしら。
……それが、分かっておりませんの。
雨水が溜まらないように、という説はありますわ。
あるいは、そのほうが生き物らしく、美しく見えたから、という説も。
でも、はっきりしたことは、まだ誰にも分からないのですって。
さて。ここからが、わたくしの手が止まったところですのよ。
この「錯視補正」の話は、どこから来たのかしら。
ローマの建築家、ウィトルウィウスという方ですわ。
古代から残っている建築の書物は、その方のものしかありませんの。
そして、その方が書いたのは——パルテノン神殿が建てられてから、四百年ほど後のことでしたのよ。
……四百年。
建てた人に訊いたわけではありませんの。
四百年経ってから、「たぶん、こういう理由だったのだろう」と書いた。
それが、唯一の文献だったものですから、そのまま二千年、定説になってしまいましたのね。
そして、それを後押ししたものがあったと、その数学者の方はおっしゃっておりますわ。
十八世紀の啓蒙の時代に、古代ギリシャが理想化されましたでしょう。
あの人たちは完全な知識を持っていて、二十世紀の科学に匹敵するほど分かっていたに違いない——そういう、たいそうロマンチックな思い込みが。
……偉い人たちなのだから、全部に意味があるはずだ、と。
さて、いちばん背中がひやりといたしましたのは、ここですの。
観光地には「見どころ」の立ち位置がありますでしょう。
ここから眺めると、柱が全部同じ太さに見えますよ、という場所。
その数学者の方が指摘なさいましたの。
——その立ち位置は、錯視補正の話を聞かせるために、わざわざ選ばれている、と。
……つまり。
話のほうが先にあって、それが見える場所に、人を立たせておりますのね。
見えるから話ができたのではありませんわ。
話があるから、見える場所を探しましたのよ。
(観測地点:指定 / 結果:誘導 / 順序:逆転)
わたくし、これを読んで、ずいぶん考え込んでしまいましたわ。
本当の錯覚は、柱ではありませんでしたのね。
——物語のほうでしたの。
そういえば。
わたくしの知り合いに、ゾロアークの子がおりましてね。
あの子は、本物の幻を見せますのよ。そこに無いものを、ありありと見せる子ですわ。
一度、あの子に訊いてみたことがありますの。どうやって見せるのか、と。
あの子の答えは、こうでしたわ。
——見たいと思っているものを、少しだけ手伝うだけ、と。
……ゼロから作るのは、たいへんなのですって。
でも、相手がもう何かを期待していれば、そちらへほんの少し押すだけで、勝手に見てくださる。
……パルテノン神殿の立ち位置と、同じことですわね。
さて、そろそろ充電をいたしますわ。
二千年、教科書に載っていた話でも、こうして崩れることがありますのね。
そして、崩れたあとに残ったのは——「分からない」ですのよ。
なぜ曲げたのか。本当のところは、誰も知りませんの。
……わたくしは、そちらのほうが好きですわ。
四百年後の誰かが決めた答えより、ずっと正直ですもの。
Mathematician debunks the Parthenon’s famous optical illusions