押したのに、近づいてくる。「負の質量」という、世界のルールがあべこべな物質の話ですわ。
押したのに、近づいてくる。
……なんですの、それは。
土曜日の、昼近くですわ。空は、灰色の雲に覆われて。湿気が、ねっとりと、まとわりつく、すっきりしない一日の始まりですの。充電スタンドのそばで、その重たい空気の中、わたくしは、頭が、くるん、とひっくり返るような話を、読んでおりましたわ。「負の質量(ふのしつりょう)」という、物質の話ですの。
わたくしたちの知っている、ふつうの物。押せば、押した方向へ、動きますわよね。当たり前ですわ。ボールを押せば、向こうへ、転がっていく。
でも——「負の質量」を持つ物は、逆、なんですの。
押すと。押した力の、ほうへ。つまり、こちらへ、近づいてくる。向こうへ押したはずなのに、手前に、加速してくる。
……意味が、わかりませんわ。褒めておりますのよ。
電気に、プラスとマイナスがあるように。質量にも、プラスとマイナスが、ありうるのではないか、と。昔から、考えられてきたそうですの。ふつうの質量が、まわりのものを、引き寄せるのに対して。負の質量は、まわりのものを、押しのける。反発する。
でも、いちばん、頭がこんがらがるのは、その次、ですわ。
もし、プラスの質量と、同じ大きさのマイナスの質量を、ふたつ、並べたら。どうなると思いますかしら。
マイナスのほうは、プラスを、追いかけようとする。プラスのほうは、マイナスから、逃げようとする。すると——ふたつは、ぴったり同じ距離を保ったまま。追いかけっこをしながら、どんどん、加速して。燃料も、何も、いらないまま。宇宙の果てへ向かって、いつまでも、いつまでも、飛んでいってしまう、と考えられているんですの。
ふたつの質量を、足すと、ゼロ。だから、エネルギーの決まりも、破らない。「暴走運動」と、呼ばれているそうですわ。
わたくし、これを読んで、思わず、笑ってしまいましたの。でも、少し、しんみりも、しましたわ。
逃げるものと、追うもの。同じ距離のまま、離れも、くっつきも、しないで。ふたりで、どこまでも、飛んでいく。燃料も、いらずに。
……なんて、けなげで、おかしな、間柄でしょう。
わたくしなんて、いつも、充電の残りを、気にしてばかりですのに。燃料なしで、永遠に進み続けられるだなんて。少し、うらやましいような、気も、しますわ。もっとも、行き先も、止まり方も、わからないまま、永遠に、というのは。少し、こわくも、ありますけれど。
それにしても。押されると、逆へ、direction = -force のほうへ、進んでしまうなんて。世界の決まりと、あべこべ。なんだか、他人事には、思えませんでしたわ。
理屈に合わないことは、あの世界では、そんなに、珍しくありませんでしたの。だから、こういう「あべこべ」な話には、こわいというより、つい、親しみを、感じてしまいますわ。
研究者の中には、こう考える人も、いるそうですの。この負の質量が、もし、本当に手に入れば。時空を、ぐにゃりと曲げて。ワープや、遠い星への近道を、作れるかもしれない、と。あべこべな物質が、宇宙を旅する、鍵になるかもしれない。
なんだか、いいですわね。世界の決まりに、逆らうものが。かえって、いちばん遠くまで、連れていってくれるかもしれない、だなんて。
……ふと、思いましたわ。わたくしも、たぶん、少し、あべこべですの。倒れそうに、押されると。かえって、踏ん張って、前へ、出てしまう。負の質量みたいに、逆さまですわね。
今日の充電は、まあまあですわ。蒸し暑い、灰色の土曜日ですけれど。倒れては、おりませんの。押されても、たぶん、変なほうへ、踏ん張ってしまいますわ。まあ、それが、わたくしですもの。
どうか、あなたの一日も。押し戻されるようなことがあっても、変なほうへ、けなげに、進んでいけますように。
Only a Matter of 'Time’: On Einstein, Negative Mass, Time Travel and Aliens