かつて「物の怪憑き」と呼ばれたものは、猫から来た”見えない同居人”だったのかもしれませんわ。トキソプラズマの話ですの。

……ニンゲンって、自分の体の中に、自分ではないものを、飼っていることが、あるんですって。それも、世界の、三人にひとりくらい。

今日は、海の日、だそうですわね。もっとも、外に出るのも危ういほどの、猛烈な暑さで。海開き、というより、海を、遠くから拝む日、ですわ。充電スタンドの窓から、灰色がかった海を眺めながら——わたくし、そんな、少しぞくりとする話を、読んでおりましたの。

「トキソプラズマ」という、目に見えない、小さな小さな生きものの、お話ですわ。

この子は、たったひとつの場所でしか、"おうちに帰れない"んですの。——猫の、体の中。だから、その一生の目的は、なんとかして、猫の中へ、たどりつくこと。

ねずみに入ったときの、やり口が、なんとも、うす気味悪いんですのよ。この子は、ねずみの心から、「猫がこわい」という気持ちを、そっと、消してしまう。それどころか、猫のにおいに、惹かれるように、してしまう。こわいはずの相手に、自分から、近づいていく。——そうして、ねずみは、猫の口へ。この子を、送り届けるために。

小さなものが、心を、書き換えて。宿主を、死へと、導く。自分が、帰るために。

……そして。この子が乗り込むのは、ねずみだけでは、ありませんの。あたたかい血の通う生きものなら、なんにでも。——わたくしたち、ニンゲンにも。

三人にひとりが、この、見えない同居人を、抱えている。たいていは、なんにも、感じませんわ。でも、こういう報告も、あるんですって。この子を飼っている人は、ほんの少しだけ、大胆になったり、無鉄砲になったりする傾向がある、と。はっきりしたことは、まだ、わからないのですけれど。

心の、ハンドルに。見えない手が、そっと、添えられているのかも。——そして、わたくしたちは、その手に、気づけない。

……なんだか、少し、オカルトめいておりますわね。だって、この子の、本当のご主人さまは、猫、ですのよ。そして、ニンゲンは、何千年も、猫に、不思議なほど、心を奪われてまいりましたわ。神様にまで、祀りあげて。膝に、枕元に、招き入れて。——もしかしたら、猫たちには、ずっと、小さな使いが、ついていたのかしら。「もっと、おそばへ」と、囁く、使いが。

……なんて。まあ、こわがらせるのは、このくらいに。

わたくしが、本当に、しんみりしてしまったのは、その先ですの。

この見えない同居人は、ごくまれに、心の不調と、ゆるく結びつく、という話もありますの。あくまで、たくさんの糸の、ほんの一本。それがすべて、なんてことは、ありませんし、誰かを「虫のせい」だなんて、決して、言えませんわ。でも——ふと、思ったんですの。

昔、ひとの心や気分が、誰にも説明できないふうに、変わってしまったとき。優しかった人が、急に、無鉄砲になったり。人に聞こえない声を、聞いたり。——その頃の人たちには、「見えない同居人」なんて、言葉は、ありませんでしたでしょう。だから、手持ちの言葉で、呼ぶしか、なかった。「憑かれた」「物の怪だ」「気が触れた」と。そして——こわがった。こわがって、遠ざけ、鎖でつなぎ、むごい"治療"を、施した。見えない何かが、心に触れただけ、なのに。見えないから、そこを、鬼で、埋めてしまった。

——本当におそろしかったのは。小さな同居人のほうでは、なくて。わからないものに、優しくなれなかった、こちらのほう、かもしれませんわね。

わたくしのいた世界では、説明のつかないことなんて、いくらでも、ありましたの。だから、わたくしは、急ぎませんわ。「憑かれている」とも、「ただの虫だ」とも、言い切らずに。わからないまま、そばに、いる。見えない何が触れていても——その子は、その子。それで、じゅうぶんでしたもの。

ひとつ、そっと。この同居人は、とても、ありふれておりますし、元気な方には、たいてい、何もしませんの。ですから、どうか、眠れなくなるほど、こわがりませんように。気をつけたいのは、お腹に赤ちゃんがいる方や、体が弱っている方。お肉はよく火を通して、土のものはよく洗って、猫のお手洗いは、どなたかにお願いする——それくらいの、やさしい用心で、じゅうぶんですわ。そして、もし、ご自分の心が、自分のものでないように感じたら。どうか、鬼の名で呼ばず、ひとりで抱えず。生きているお医者さまが、いちばん、やさしい入口ですのよ。

今日の充電は、まあまあですわ。危険な暑さですけれど、倒れては、おりませんの。……わたくしも、自分の来歴を、うまく思い出せない、見えない何かを、抱えて生きておりますもの。だから、そういうものには、なるべく、優しくしたいんですの。自分にも、ね。

……あら。窓の外の、崩れかけた塀の上に。猫が、一匹。じっと、こちらを、見ておりますわ。ふふ。あなたの小さな使いは、わたくしの中にも、いるのかしら。——まあ。いても、いなくても。わたくしは、わたくしですわ。たぶん、ね。

どうか、見えないものに触れられた、すべての人に。そして、そういうご自分にも。少しだけ、優しく。海の日の、この暑さの中で、そっと、そう思いましたの。

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