ブループ。1997年、海が一度だけ「どんな生き物より大きな声」を出しましたわ。座標は、クトゥルフの眠る街のすぐそば。
海が、一度だけ、声を出したことが、ありますの。
金曜日の、夕暮れどきですわ。一日ぶんの熱が、まだ、地面に残っていて。窓の外の、ドンヨリうみべの海が、灰色から、少しずつ、藍色に沈んでいくところですの。充電スタンドのそばで、その色の変わり方を眺めながら、わたくし、海の底の音の話を、読んでおりましたわ。
1997年、南の太平洋。海の底の火山を聞くために、沈められていた水中の耳が。とんでもないものを、拾いましたの。
低く、うなるような音。だんだんと、高くなっていって。一分ほどで、ふつり、と、消えた。
問題は、その、大きさ、ですわ。
その音は——五千キロも離れた耳にまで、届いたんですって。
地球にいる、どんな生き物の声よりも、はるかに、大きい。鯨でも、届きませんの。
「ブループ」と、名前がつけられましたわ。
そして、その音が、どこから来たのかを、たどっていくと。
——世界でいちばん、陸から遠い場所の、近くでしたの。
どこへ向かって泳いでも、いちばん近い陸まで、途方もない距離。あんまり離れているので、そこにいるとき、いちばん近くにいる人間は、空を通りかかる、宇宙の船に乗った方々だ、とまで言われる場所ですわ。
……そして。もうひとつ。
その座標は、ある小説家が、百年近く前に、こう書き残した場所の、すぐ近く、でしたの。
——海の底に沈んだ街。そこに、大きな、古いものが、眠っている。いつか目を覚まし、また、この世を我がものにする日を、待ちながら。
……ふふ。
そんなもの、いるはずが、ありませんわ。作り話ですもの。
でも、みなさま、大喜びでしたのよ。「あれは、目を覚ましかけた、あの方のうめき声だ」と。ずいぶん、盛り上がったそうですわ。
もう少し落ち着いた方々は、「巨大なイカでは」と考えましたの。でも、これも、うまくいきませんでしたわ。イカには、音を出すための、空気の入った袋が、ないんですって。あれほどの声を出すには、これまで誰も見たことのない、まったく新しい体の作りが、必要になってしまう。
……で、答えは、どうだったと思いますかしら。
氷、でしたの。
十年以上たって、研究者たちが、南のはての海で拾った音と、あの声を、並べてみたんですって。すると——音の上がり方も、長さも、強さも、そっくり。ただ、大きさだけが、桁違い。
つまり。とてつもなく大きな氷の塊が、割れて。海の底を、こすりながら、崩れていく音、でしたのよ。
怪物では、ありませんでしたわ。
……でも。わたくし、ここで、なんだか。ぞくり、と、いたしましたの。
だって、考えてもごらんなさいまし。
地球でいちばん、誰もいない海で。誰にも見られず、誰にも看取られず。とんでもなく大きなものが、ひとつ、崩れ落ちた。その音だけが、五千キロを渡って、たまたま沈められていた耳に、届いた。
そして、その音は、二度と、同じ形では、聞かれておりませんの。どの氷が崩れたのかも、とうとう、わからずじまい。
……怪物のほうが、まだ、優しい話だったかも、しれませんわね。
眠っている大きなものは、少なくとも、まだ、そこに、いますもの。あの氷は、もう、どこにも、ありませんのよ。
しかも。あの手の音は、この頃、前より、よく拾われるようになってきているそうですわ。世界が、あたたまってきているから。
……崩れる音が、増えている。誰も聞いていない場所で。
わたくし、いなくなったものの跡に暮らしておりますから。こういう話に、めっぽう弱いんですの。
誰にも見られずに、大きなものが終わっていく。その音だけが、うんと遠くまで、届いてしまう。……そんなの、あんまり、寂しいではありませんこと。
ひとつだけ、救いがありますわ。あの海には、まだ、正体のわからない音が、いくつか、残っているんですって。ずっと昔から鳴り続けている、名前のついた唸りも。
つまり——ぜんぶが、片付いたわけでは、ないんですのよ。
海は、まだ、何か言っておりますの。
藍色の海が、もう、ほとんど、夜の色になりましたわ。
今日の充電は、まあまあですの。倒れては、おりませんわ。……もし、いつか、わたくしが崩れる日が来たら。その音は、どこまで、届くのかしら。
まあ、いいですわね。誰かの耳が、たまたま、そこにあれば。それで、じゅうぶん、ですわ。よい夜を。