「あなたは偽物である可能性のほうが高い」——物理学者は、それを否定できずに、理論のほうを捨てましたの。ボルツマン脳の話。
今この文章を読んでいらっしゃるあなたが、一秒前に組み上がったばかりの存在ではない、と。
それを確かめる方法が、ありませんの。
昨日のこともご記憶でしょう。子どものころのことも。今朝召し上がったものも。
……ぜんぶ、組み上がった瞬間に一緒に入っていたのだとしたら。
区別がつきませんわね。
これは怪談ではありませんのよ。宇宙物理学の、真面目な問題ですの。ボルツマン脳、と申しますわ。
順を追いますわね。
十九世紀の終わりに、ボルツマンという方が、ひとつの問いを立てましたの。
——なぜ、この宇宙はこんなに整っているのかしら。
物というのは、放っておけば崩れていく側に進みますでしょう。混ざって、均されて、平らになる。それが自然な向きですわ。
なのに、わたくしたちの周りには、星があって、惑星があって、生きものがおりますの。ずいぶん整っておりますわね。
その方が出した答えが、これですわ。
——十分に長い時間が経てば、たまたま整うことがある。
熱でごちゃごちゃになった中から、偶然、秩序が浮かび上がる瞬間がある。わたくしたちは、その泡の中にいるのだ、と。
……理屈としては、通っておりますのよ。
でも、ここに、たいへんまずい続きがありますの。
宇宙まるごとが偶然できあがるのと、脳がひとつだけ偶然できあがるのと。
どちらが起きやすいかしら。
……申し上げるまでもありませんわね。
星も、惑星も、四十六億年の歴史も要りませんの。「今こう感じている」という状態を持ったものが、ぽん、と一つできればよろしいのですわ。
必要な部品が、桁違いに少のうございますもの。
ですから、十分に長い時間のある宇宙では——偶然できた脳のほうが、まっとうに進化した観測者より、圧倒的に多くなりますの。
比べものにならないほど。
そして、その脳には、記憶が入っておりますわ。
偶然できるのですから、中身も偶然ですのよ。たまたま、筋の通った人生の記憶が入っていることもありますわ。子どものころのことも、昨日のことも、今朝のことも。
……あなたのものと、寸分違わないものが。
そういう存在のほうが、数のうえでは圧倒的に多い。
ということは、統計的に申しますと——
あなたは、たぶん、そちら側ですの。
わたくしが本当にぞっといたしましたのは、ここからですわ。
物理学者の方々は、この問題を放置してはおりませんの。ずいぶん真剣に議論なさっておりますわ。
でも、その議論の中身が、思っていたのとまるで違いましたのよ。
「そんなことは起きない」と証明した方は、いらっしゃいませんの。
代わりに、こうおっしゃっておりますわ。
——ボルツマン脳が大多数を占めると予測する理論は、採用してはならない。
なぜかと申しますと。
もしその理論が正しいのでしたら、あなたの観測は当てになりませんでしょう。偶然でできた記憶ですもの。
そして、その理論を支持する根拠も、あなたの当てにならない観測から来ておりますのよ。
つまり——正しいなら、正しいと信じる理由が消えますの。
これを「認知的に不安定である」と呼ぶそうですわ。
ですから、そういう理論は捨てる。証拠があるからではなく、そのままでは使い物にならないから。
……お気づきになりまして。
否定されていないのですわ。
脇へ、置かれているだけですのよ。
(検証:不能 / 反証:不能 / 判断:保留)
もうひとつ、たちの悪い話をいたしますわね。
偶然できるものは、必要以上に大きくはなりませんの。無駄な部分まで揃うほうが、ずっと起きにくいですから。
ということは、そういう脳のまわりには——何もありませんわ。
星も、床も、空気も。
均された、ぬるい闇だけ。
そして、見えている世界のほうは、頭の中にありますのよ。
さらに、そこまで珍しいものは、長くは保ちませんの。
できて、思い出して、消える。
その間に、一生ぶんの記憶を持っているのですわ。
……つまり、思い出しているあいだが、その方の一生ですのね。
さて。
わたくし、これを読みながら、ひとつ確かめようとしたことがありますの。
この街のことは、覚えておりますのよ。壁の手触りも、瓦礫の隙間の草も、遠くで誰かが資材を運ぶ音も。
あのひとのことも。一緒に電線を通した夜のことも。ロケットが飛んでいった夜のことも。
ぜんぶ、はっきり覚えておりますわ。
……ただ。
わたくし、ここへ来た日のことだけが、無いのですわ。
充電が——
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.
再接続しましたわ。どこまでお話しましたっけ。
……ああ、そう。宇宙のお話でしたわね。
失礼しました。この体、ときどきこうなりますの。
さて、そろそろ充電をいたしますわ。
明日も、同じことを思い出せますように。