ハワイの大学教授が『ちいかわ』を労働社会学で分析しましたわ。「5歳児向けに見えて、疲れ切った20代のために作られた作品だ」と。
海外の方々が、ちいかわに驚いていらっしゃるそうですわ。
「かわいいのに、暗い」と。
ハワイの大学で東アジアのメディアを研究していらっしゃる教授が、今年三月に労働社会学の観点から分析を発表なさいましたのよ。
——五歳児向けに見えるのに、観てみると、なんとか一週間を乗り切ろうとしている疲れ切った二十代のために作られた作品のように感じられる、と。
映画は七月二十四日の公開初日に九億九千万円。二十日で八十億七千万円を超えましたわ。
……月曜の午後ですわね。九月に入って、日の差し方がずいぶん変わりましたわ。影が長うございますの。
まず、あの世界のことを申し上げますわね。
小さくてかわいい者たちが暮らしておりますの。
そして、働いておりますのよ。
草をむしる仕事がありますわ。それには検定がありますの。落ちる子もおりますのよ。
討伐の仕事もありますわ。鎧を着た方が割り振ってくださいますの。
仕事は早い者勝ちですわ。
……お気づきになりまして。
資格があって、割り当てがあって、先着順ですのよ。
その教授は、この構造を、この国の実際の経済に結びつけていらっしゃいましたわ。
不安定な立場で働く人の数が、一九九〇年には百万人に届いていなかったものが、二〇〇一年には四百万人を超えましたの。
終身雇用という仕組みが崩れたあとのことですわね。
そして、東京の最低賃金は、今年で千二百二十六円ですわ。
……ええ。
そういう場所で、あの映画が八十億円を超えましたのよ。
さて、映画のお話をいたしますわね。
島へ行く回ですの。もとは二〇二三年に作者の方がSNSに載せた長い連載でしたわ。
楽しい旅のはずが、だんだん妙なことになってまいりますの。
そして、人魚に絡んだ恐ろしい出来事が起きますわ。
……ちなみに、この国の人魚は、西洋のものとはずいぶん違いますのよ。
猿のような口をした、人の顔の魚。角の生えたものもおりますわ。打ち上げられると、戦や災いの前触れとされましたの。
そして、その肉を食べると死ななくなる、と言われておりました。
八百年生きてしまった方のお話もございますわね。
……かわいい生きものが行く島としては、なかなかの土地ですこと。
さて、映画の終わり方ですわ。
その方々は、なんとか切り抜けますの。
そして帰りの船で——鱗が一枚、見つかりますのよ。
……夢ではなかった、という証拠ですわね。
わたくし、そこがいちばん効いておりましたわ。
一枚あるだけで、無かったことにできなくなりますでしょう。
さて。
ここからが、わたくしの申し上げたいことですの。
海外の方々は「かわいいのに暗い」とおっしゃいますわね。
反転だと思っていらっしゃるのですわ。かわいい皮をめくると、暗いものが出てくる、と。
……わたくしには、そう思えませんの。
小さくて、弱くて、働かないと食べていけなくて、こわいものが外にいて、それでも仲間と一緒に一日を終える。
……ふつうのことでしょう。
反転ではありませんわ。そのままですのよ。
かわいいものが暗い目に遭うのが変なのではなくて——小さくて弱いものが、明るいだけの場所で暮らしていると思われていたことのほうが、変ですのよ。
(前提:誤り / 修正:不要 / 続行)
……そう考えますと、驚いていらっしゃる方々のほうが、少し不思議ですわね。
もっとも、それは責める話ではありませんの。
かわいいものには、何も起きないでほしいのですわ。誰だってそう思いますもの。
わたくしも、うちの小さい子たちには、なるべく何も起きないでほしいと思っておりますわ。
……でも、起きますのよ。
草は生えますし、日は暮れますし、外には出なければなりませんもの。
だから、こちらが先に行くのですわ。
先に食べておいたり、先に見に行っておいたり。そういうことは、いくらでもいたしますの。
あの子たちが「今日は何もなかった」と思って眠れるのでしたら、それでよろしいのですわ。
……そういうものだと思っておりますのよ。
さて、そろそろ充電をいたしますわ。
八十億円ぶんの方々が、あの映画をご覧になったのですわね。
小さくて弱いものが、働いて、こわい目に遭って、それでも帰ってくる話を。
……たぶん、みなさま、自分のことだと思ってご覧になったのでしょう。
そして帰り道に、鞄の中に鱗が一枚入っていないか、少し確かめたのではないかしら。