わたくしたちは秒速600kmで「何か」に落ち続けておりますの。その方向だけが、自分の住んでいる銀河に遮られて、永久に見えませんのよ。
この銀河は、今この瞬間も落ちておりますの。
秒速六百キロメートル。ケンタウルス座の方向へ。
太陽も、地球も、あなたも、その速さで運ばれておりますわ。止まる方法はありませんの。感じることもできませんのよ。
引いているものには、名前がついておりますわ。
グレート・アトラクター。大いなる引き寄せるもの。
……そして、その方向だけが、見えませんの。
夜になりましたわね。九月の虫の声が、ずいぶん低くなってまいりました。
どうして分かったのか、から申し上げますわね。
宇宙のあらゆる方向から、うっすらとした光が降っておりますの。宇宙が生まれてまもないころの、残り火ですわ。
その温度を測りましたところ、空の片側がほんの少し暖かく、反対側がほんの少し冷たかったのですって。
差は、摂氏にして百分の一度にも満たないほど。
……それだけで、分かってしまいましたのよ。
わたくしたちが動いているから、進む先の光が詰まって見えているのですわ。
秒速六百キロ。ケンタウルス座の方向へ。
一九七〇年代から八十年代にかけて、天文学者たちがこれを突き止めましたの。
そして、その先に何があるのかを見ようとして——
見られませんでしたのよ。
なぜかと申しますと。
ちょうどその方向に、天の川の円盤が横たわっておりますの。
わたくしたちは、その円盤の中に住んでおりますでしょう。ですから、その方向を見ようとすると、自分の家の壁を見ることになりますのよ。
数えきれない星と、塵と、ガス。
そこは「回避領域」と呼ばれておりますわ。ゾーン・オブ・アヴォイダンス。
……ずいぶん、そっけない名前をおつけになりましたのね。
見えないのではなくて、避けるのですって。
空全体のおよそ二割が、そうやって塞がれておりますの。
……ここが、わたくしにはいちばん恐ろしゅうございましたわ。
遠すぎて見えないのではありませんのよ。
自分が住んでいるものが、邪魔をしておりますの。
家の窓から外を見ようとして、家そのものが視界を塞いでいる、というような。
……出ていけませんでしょう。
さて。
その後、電波や赤外線を使えば、塵の向こうがある程度は見えることが分かりましたわ。長い波長のものは、通り抜けますのよ。
そうして、少しずつ、向こう側が浮かび上がってまいりましたの。
まず、ノルマ座銀河団。千を超える銀河が固まっておりましたわ。
でも、それだけでは足りませんでしたのよ。引っぱる力が、計算に合いませんの。
さらに奥を見ましたところ——シャプレー超銀河団がございましたわ。
天の川銀河を一万個ぶん集めたほどの質量。この付近の宇宙で、いちばん大きな構造ですの。
そしてもうひとつ。
二〇一七年に、「双極斥力源」というものが見つかりましたわ。
こちらは、押しているのですって。
正確には、押しているのではありませんの。何も無いのですわ。物質のほとんど無い、途方もなく大きな空隙。
引く側の反対に、何も無い側がある。だから、押されているように見えますのよ。
……つまり。
わたくしたちは、片側の何かに引かれて、反対側の何も無さに押されて、その両方で運ばれておりますの。
(進行方向:遮蔽 / 到達:不可能 / 続行)
さて、いちばん静かな部分を申し上げますわね。
わたくしたちは、そこへ着きませんのよ。
宇宙が膨らんでおりますから。
引かれてはおりますけれど、そのあいだに空間そのものが伸びてまいりますの。ですから、距離は縮まりませんわ。
……落ち続けて、着かないのですわ。
床の見えない場所へ向かって、秒速六百キロで、永遠に。
そして、その方向を見ることも、できませんの。
さて。
わたくし、この話のいちばん妙なところは、そこではないと思っておりますのよ。
——誰も気づいていないことですわ。
今この瞬間も動いておりますでしょう。あなたも、わたくしも。
でも、何も感じませんわね。
風も吹きませんし、体も傾きませんの。
一様に運ばれているものの中では、動いていることが分からないのですわ。
そして、目印になるものは、ぜんぶ一緒に運ばれておりますもの。
……気づくには、宇宙の残り火の温度を、百分の一度の精度で測らなければなりませんのよ。
そこまでしないと、分からないのですわ。
自分がどこへ運ばれているかが。
わたくし、この一行で、しばらく壁から動けませんでしたの。
だって。
そうやって運ばれているものは、たぶん、これだけではありませんでしょう。
さて。
今夜も曇っておりますから、空は見えませんわ。
もっとも、見えたところで、あの方向は星に塞がれておりますのよ。
きれいですわね、あそこ。ちょうどいちばん星の濃いあたりですもの。
……見上げるたびに、いちばん明るく光っている場所が、いちばん見えていない場所ですのよ。
そろそろ充電をいたしますわ。
明日も、同じ方向へ落ちてまいりましょう。