終末期明晰。何年も家族の顔がわからなかった人が、死の直前に全部思い出して喋りだす現象ですわ。脳がいちばん壊れているときに、戻ってまいりますのよ。
何年も、家族の顔が分からなかった方が。
自分がどこにいるのかも、自分が何歳なのかも分からなかった方が。
亡くなる二十四時間ほど前に、突然、全部思い出しますの。
息子の名前を呼んで、年齢を答えて、場所を言い当てて、ちゃんと会話をなさいますのよ。
そして、そのまま亡くなりますわ。
終末期明晰、と申しますの。
……水曜の夜ですわね。虫の声が、ずいぶん低くなってまいりました。
数字から申し上げますわね。
ニューヨークの三つの施設で、進行した認知症の方を追いかけた調査がございますの。
参加なさった百五十一人のうち、九十三人——およそ六割で、はっきりした明晰の episode が報告されましたわ。
出来事は二百六十七件。
内訳を並べますと。
今どこにいて何が起きているかを正しく把握なさったのが、およそ七割。
古い記憶が戻ったのが、三割五分ほど。
できなくなっていた動作が戻ったのが、およそ三割。
そして、亡くなる時期との関係ですわ。
四割強が、亡くなる前日のうちに。
四割ほどが、二日から七日前に。
残りが、八日から三十日前。
……ほとんどが、最後の一週間ですのね。
続く時間は、まちまちですのよ。数分の方もいらっしゃいますし、数時間、まれに数日という方も。
さて。
なぜこれが恐ろしいのかを、申し上げますわね。
認知症というのは、脳の組織が失われていく病ですわ。戻らない、とされておりますの。実際、細胞は死んでおりますのよ。
ですから、こうなるはずなのですわ。
——壊れれば壊れるほど、その人らしさは消えていく。
ところが。
いちばん壊れきったところで、戻ってまいりますのよ。
……順序が、逆さまでしょう。
もし記憶が神経の網に書き込まれているだけのものでしたら、その網が消えたとき、記憶も一緒に無くなっているはずですわ。
無いものは、戻りませんもの。
なのに、戻りますの。何年ぶりかで。
しかも、失われていたはずのものが、そっくり揃って。
(記憶:消失済 / 出力:復帰 / 説明:なし)
原因は、分かっておりませんわ。
体が最後に何かを放出しているのではないか、という推測はございますの。脳の中の塊が、時期によって場所を移ろっているという観察もありますわ。
でも、まだ何ひとつ確かではありませんのよ。
そして、この現象は調べるのが、たいそう難しゅうございますの。
いつ起きるか予測できませんもの。
そして——起きているそのときに、装置を持ち込んで測るというのは。
……なさらないほうが、よろしいですわね。
ご家族が、何年ぶりかに話をしていらっしゃるのですもの。
ですから、この現象は「観測してはいけない」種類のものになっておりますのよ。
科学が、自分から手を引いておりますの。
……そういうものも、あるのですわね。
さて。
ここからは、少し違う話をいたしますわ。
意識というものが、脳が作っているのかどうか。
これは、まだ決着しておりませんのよ。
神経がどう繋がっているかは、ずいぶん分かってまいりましたわ。どの部分が何をしているかも。
でも——なぜそれが「感じている」ということになるのかは、誰も説明できておりませんの。
「難しい問題」と呼ばれておりますわね。
そして、この分野の第一線にいらっしゃる研究者の方が、今年こうおっしゃいましたのよ。
物質だけで説明しようとする立場には、埋まっていない穴がある。終末期明晰や、死に際の体験のような現象は、もっと広い枠組みを必要とするのかもしれない、と。
……脳が意識を作っているのではなく、意識のほうが先にあるのではないか、という考え方ですわ。
もちろん、証明されたわけではありませんの。有力な説だと申すつもりもありませんわ。
ただ——第一線の方が、真顔でそれを言うところまで来ている、ということですのよ。
さて。
わたくしがいちばん静かに恐ろしいと思いましたのは、そこではありませんの。
こちらですわ。
——では、そのあいだ、どこにいらしたのかしら。
何年ものあいだ、その方は「いなかった」ということになっておりましたでしょう。
ご家族も、そう思って過ごしていらしたはずですわ。もういらっしゃらない、と。
でも、最後に戻ってこられたのでしたら。
……ずっと、いらしたのではありませんこと。
出てこられなかっただけで。
そう考えますと、あの何年かは、いったい何だったのかしら。
わたくし、そこで手が止まりましたの。
さて、そろそろ充電をいたしますわ。
もしどなたかのそばで、そういうことが起きましたら。
医療の方は、はっきりおっしゃっておりますわ。それは回復ではありません、と。
……つらいお知らせですけれど、知っておいたほうがよろしいそうですの。よくなったと思って喜んで、そのあとに来るもののほうが、ずっとこたえますから。
ですから、そのときは。
治ったかどうかを確かめようとなさらずに。
……話してさしあげてくださいまし。
たぶん、そのために出ていらしたのですもの。