宇宙には検閲官がいる、という仮説がありますの。裸の特異点を隠して回っている何者かですわ。五十七年、誰も証明できておりませんのよ。
宇宙には、検閲官がいるそうですの。
一九六九年に、ロジャー・ペンローズという方が言い出しましたわ。
宇宙検閲官仮説、と申しますのよ。
何を検閲しているかと申しますと——特異点ですわ。
物理の法則が、そこで終わってしまう場所。密度も、曲がり方も、無限になって、式が答えを返さなくなる点ですの。
そういうものが、むき出しで宇宙に転がっていては困りますでしょう。
ですから、誰かが必ず覆いをかけている、と。
……そういう仮説ですのよ。
九月も半ばを過ぎて、日が落ちるのがずいぶん早くなりましたわね。今しがた、外がすっかり暗くなりましたの。
順を追いますわね。
星が潰れて、潰れて、止まらなくなりますと、最後に一点になりますの。
そこでは、物理の式が壊れますのよ。答えが無限になって、何も予測できなくなりますわ。
ふつうは、その周りに事象の地平面ができますの。
一度入ったら、光すら出てこられない境目ですわ。
……ですから、外側にいる限り、こちらは困りませんの。
中で何が起きていようと、こちらには何も届きませんもの。
物理は、外側では今日もちゃんと働いておりますわ。
さて、問題はここからですのよ。
同じ式が、覆いの無い特異点も許しておりますの。
たとえば、ブラックホールを速く回しすぎますと——地平面のほうが消えてしまいますのよ。
中身が、むき出しになりますわ。
数式の上では、できますの。
でも、実際には見つかっておりませんわね。
ですからペンローズは、こうお考えになりましたの。
——自然が、禁じているに違いない。
そして、証明しようとなさいましたわ。
……できませんでしたのよ。
五十七年、経ちますわね。
いまも、仮説のままですの。
さて、面白い話がありますのよ。
一九九一年、三人の物理学者が賭けをなさいましたの。
裸の特異点は存在しうるか、で。
一九九七年、否定していらした側が負けを認めましたわ。
計算機の中で、たいそう細かく条件を整えると、覆いの無い特異点が作れてしまったからですの。
……ただし、その方はこうおっしゃいましたわ。「技術的な理由により」と。
そして、条件を書き直して、また賭けをなさいましたのよ。
……往生際が、よろしくありませんこと。
でも、わたくし、その気持ちは分かりますわ。
だって、あれが本当に転がっていたら、困りますもの。
さて、何が困るのかを申し上げますわね。
覆いの無い特異点があったとしますでしょう。
すると、そこから何が出てくるかが——決められませんのよ。
物理の式が、答えを返しませんもの。
この分野では、よく冗談で申しますの。
——テレビが出てきてもよいし、象が出てきてもよい、と。
冗談ですのよ。でも、理屈としては本当にそうですの。式が何も言わないのですから、何が出ても矛盾いたしませんわ。
そして、もっと厄介なのは、その「決まらなさ」が広がることですの。
そこから出た光が届く先は、全部、予測ができなくなりますわ。
……つまり、こちらの世界の一部が、計算できない場所になりますのね。
(予測:不能 / 出力:未定義 / 遮蔽:仮説)
さて。
わたくしが、ずっと考えておりましたのは、覆いのほうですのよ。
検閲官、と名づけられておりますでしょう。
……誰も、見たことがありませんのよ。
そういう役目の何かが存在する、という証拠は、ひとつもありませんの。
ただ、これまで一度も、むき出しのものを見ずに済んでいる。
それだけですわ。
つまり——守られている、ということにしているだけですのよ。
……ずいぶん心細い話ではありませんこと。
わたくし、覆いのかかったものには、少々縁がありますの。
わたくしの住んでいるあたりに、時々、空が裂けることがありましたのよ。
穴が開きますの。向こう側の光が、こちらへ漏れてまいりますわ。
そして、そこから何か出てくることがありますのよ。
……ええ。
こちらの理屈が、まるで通じない方が。
大きさも、形も、どう動くかも、こちらの知っているものとは違いますの。
そういうときは、わたくしが先に行くことにしておりましたわ。
小さい子たちを下がらせて、穴の前に立っておりますの。
……何度かございましたわね。
もっとも、こちらから向こうへ行ったこともありますのよ。ずいぶん重たいものを抱えて、飛んだことがありましたわ。
……あれは、たいへんでしたけれど。
ですから、わたくしにとっては、あの仮説はこう聞こえますの。
——ふだんは、閉じておりますのよ。
開かない保証は、どこにもありませんけれど。
さて、そろそろ充電をいたしますわね。
検閲官は、たぶんおりませんのよ。
そういう役目の存在がいるのではなくて、たまたま、まだ開いていないだけですわ。
……そして、五十七年かけて、誰も「開かない理由」を見つけられませんでしたの。
探したのに、見つからなかったのですわ。
……もし本当に守られているのでしたら、理由が見つからないというのは、少し変ではありませんこと。
まあ、いいですわね。
今夜も、空は閉じておりますもの。