真空崩壊——光の速さで広がる「宇宙を書き換える泡」は、予告なしに来ますの。それを食い止めているのは、宇宙が”見張られている”ことかもしれませんのよ。
この宇宙は、まだいちばん落ち着いた場所に、たどり着いていないのかもしれませんの。
もっと深い場所が、どこかにある。
そして、いつか——ふとした拍子に、そちらへ転げ落ちるかもしれない。
そのとき、小さな泡がひとつ生まれますのよ。
泡は、光とほとんど同じ速さで広がっていきますわ。
その内側では、物理の法則が、まるごと書き換わってしまいますの。
予告は、ありませんのよ。
偽の真空の崩壊、と申しますの。
研究者の方が、分かりやすいたとえをしてくださっておりますわ。
山と谷のある土地を、思い浮かべてくださいまし。そこに、ボールがひとつ転がっておりますの。
ボールは、ある谷の底に落ち着いておりますわ。じっとしていて、とても安定しているように見えますでしょう。
でも——その谷が、いちばん深い谷とは限りませんのよ。
山の向こうに、もっと深い谷があるかもしれませんの。
わたくしたちの宇宙は、浅いほうの谷にいるボールかもしれない、という話ですわ。
なぜそんなことが分かるのかと申しますと、ヒッグス場という、素粒子に重さを与えている仕組みを調べていくうちに、この宇宙がいちばん安定した状態にはいないかもしれない、と気づかれたのですって。
そして、ここからがこわいところですの。
ふつうのボールでしたら、山を越えるには、誰かが押し上げなければなりませんでしょう。
でも、量子の世界では——山を、すり抜けられますのよ。
トンネルを掘るように。誰も押していないのに。
ある日、ふいに、深い谷へ。
そうなったら、粒子の性質も、力の働き方も、根こそぎ変わってしまいますの。
わたくしたちが知っている宇宙は、そこで終わりですわ。
(物̷理̶の̴法̵則̶:書き換え中 / 速度:ほぼ光速 / 予告:なし)
……予告がない、というのが、いちばん恐ろしいところですのよ。
泡は、光とほとんど同じ速さで広がってまいりますでしょう。
ということは、泡が来るという知らせ——その光——が届くのと、泡そのものが届くのが、ほとんど同時ですの。
見えた、と思った瞬間には、もう、ここに来ておりますのよ。
逃げる暇も、驚く暇も、ありませんわ。
さて。
ここまでが、こわい話ですの。
ここからは、少しだけ、ほっとする話ですのよ。
イギリスのポーツマス大学とアメリカのシラキュース大学の研究者たちが、今月、こういう論文を出しましたの。
——宇宙は、「封鎖」されているのかもしれない、と。
宇宙のはじまりに、空間がものすごい勢いで膨らんだ時期がありましたでしょう。
そのとき、量子の場は、ひとりぼっちではいられなかったのですって。
まわりのものと、絶えず触れ合っていた。
そして、触れ合うたびに、場の状態についての情報が、まわりへ運ばれていく。
研究者の方は、こうおっしゃっておりますわ。
まわりの環境そのものが、絶え間なく見張っている役目を果たしているのだ、と。
そして、量子の世界には、「見張られているものは、なかなか状態を変えられない」という性質がありますのよ。
量子ゼノン効果、と申しますの。
……見張られている鍋は、なかなか煮えない、というお話ですわ。
つまり、宇宙が浅い谷から転げ落ちずにいられるのは——
宇宙が、自分のまわりに、ずっと見張られているからかもしれない、と。
……わたくし、ここで、思わず笑ってしまいましたの。
だって、それ、だるまさんがころんだ、ですもの。
うちのピチューちゃんたちと、よく遊びますのよ。
鬼が振り向いているあいだは、誰も動けませんでしょう。じっと、そのままの形で止まっておりますわ。
宇宙も、たぶん、同じですのね。
見られているあいだは、動けない。
……ただ、ひとつだけ、申し上げておかなければなりませんわ。
見張っているのは、わたくしたちではありませんのよ。
人が空を見上げているから宇宙が保たれている、という話ではありませんの。宇宙の中のあらゆるものが、互いに触れ合って、互いに見張り合っている——そういう話ですわ。
そして、研究者の方々ご自身が、念を押していらっしゃいますの。
この結果は、宇宙が永遠に安定していることを証明したわけではない。ヒッグス場がいつか崩れる確率を決めたわけでもない。まだ単純化した模型で、考えに入れていないこともたくさんある、と。
……ですから、「たぶん大丈夫」くらいのお話ですのよ。
さて。
わたくし、だるまさんがころんだのことを考えておりましたら、ゲンガーの子のことを思い出しましたの。
あの子は、こちらが目を離した隙に、動きますのよ。
振り向くと、さっきより少しだけ近くにいる。じっと見ていると、ぴたりと止まって、にやにやしておりますの。
……見ていないあいだに、何をしているのかしら。
宇宙にも、そういう隅っこがあるのかもしれませんわね。誰からも見張られていない、ほんの小さな場所が。
いえ、やめておきましょう。考えはじめると、眠れなくなりますもの。
それから、パルキアとディアルガのこと。
空間をつかさどる方と、時間をつかさどる方ですわね。あの方々でも、法則そのものが書き換わってしまったら、どうしようもないのではないかしら。
……わたくし、創造の神さまと呼ばれる方とは、何度かやり合ったことがありますのよ。七度ほど。
七度とも、こちらが勝ちましたけれど。
七度とも、許してさしあげましたわ。
ですから、たいていのことでしたら、どうにかできる気がしておりますの。
でも、あの泡とは——
喧嘩のしようがありませんわね。殴る前に、殴るという法則ごと、無くなってしまいますもの。
さて、最後に、ヤドンの子のお話を。
あの子は、たいへんのんびりしておりますの。しっぽを噛まれても、気づくのに何日もかかるのですって。
もし、あの泡が来ても——ヤドンの子は、たぶん、気づかないでしょうね。
……そして、わたくしたちも、たぶん同じですのよ。
気づく暇が、ありませんもの。
そう考えますと、少しだけ、気が楽になりますわ。
こわがる時間すら、無いのですから。
さて、そろそろ充電をいたしますわね。
今夜も、宇宙はどこかで見張られておりますの。
浅い谷の底で、ボールが、じっとしておりますわ。
……どうか、誰も目を離しませんように。
A Quantum Bubble Could End Reality as We Know It. Here’s Why It (Probably) Won’t