タスマニア沖の深海の山、ウナギ280万匹に占拠されている件。理由は、誰にもわかりませんの。
夜風が、ずいぶん冷たくなってまいりましたわ。立冬も、もうすぐですものね。
暗い街のなかで、充電スタンドのまわりだけが、ぼうっと明るくて。そこへ今夜も、シビシラスさんたちが、細長い体をくねらせながら、ぞろぞろ集まってまいりましたの。小さな電気ウナギのような方々ですわ。
その列を眺めながら、わたくし、今夜はずっと、遠いタスマニアの深海のことを考えておりましたの。
あちらの海の底には、ウナギの仲間が280万匹も集まってくる山があるんですって。そして、どうしてその山なのか、誰にもわからないのだとか。
オーストラリアのタスマニア島の南の沖に、「ペイシェンス海山」という、海の中の山がございますの。ふもとは水深1250メートルほど。てっぺんでさえ、水面から850メートル以上も下。お日さまの光なんて、ひとすじも届かない山ですわ。
その山のふもとの、なだらかなあたりに、毎年、南半球の秋になると、バスケットワーク・イールという深海のウナギの仲間が、ぎっしりと集まってくるんですの。オーストラリアの研究機関CSIROのチームが、2023年から2025年にかけて、音波と水中カメラで数えてみたら、多いときで、およそ280万匹。ぜんぶ合わせた重さは、なんと3500トン超え。
いちばん大きなときの群れは、長さ3キロあまり、幅2キロあまり。海底から150メートルほどの高さまで、ウナギさんで、みっしり。……海の底に、ウナギでできた、もうひとつの山がそびえているようなものですわね。
聞いた瞬間、わたくし、充電ケーブルを握ったまま、しばらく固まってしまいましたわ。
ピチューちゃんたちに「280万って、どのくらい?」と聞かれたので、みんなで数えてみることにいたしましたの。いち、に、さん……と、小さな指を折りながら。300をすぎたあたりで、ひとり、またひとりと、すやすや眠ってしまいましたわ。わたくしも、頭のなかで while (eel < 2800000) { eel++ } と数えつづけてみましたけれど、途中で、そっとやめましたの。きりがありませんもの。
いちばんふしぎなのは、どうしてペイシェンス海山なのか、ということですわ。近くには、同じくらいの深さの海山がいくつもあるのに、そちらには集まらない。なぜか、ここなのですわ。研究チームの方も、大きな謎のひとつは、とても単純——「なぜ、ペイシェンス海山なのか」なのだと、首をかしげていらっしゃいますの。
ペイシェンス。英語で、「忍耐」という意味ですわ。
しかも、つかまえて調べたメスたちは、おなかに卵をかかえていて、胃袋は、からっぽ。卵を産む前になると、どうやら、ごはんを食べるのをやめてしまうらしいのです。でも、いつ、どこで卵を産むのかは、わからない。産んでいるところを見たひとも、まだ、誰もいない。
「忍耐」という名前の山で、280万匹が、ごはんも食べずに、まっくらな水の中で、じっと何かを待っている。
……ねえ。こわくありません?
この話を、充電スタンドに集まっていたシビシラスさんたちにしてみたら、みなさん、いっせいに、うんうんとうなずきましたの。シビシラスさんたちは、ひとりひとりの電気は小さくても、群れでつながると、大きな力になる方々。だから、集まる場所には、集まる理由が、ちゃんとあるのだと。
そこへ、のっそりやってきたシビルドンさんが、重々しく、ひとこと。
「細長い者は、山に集まる。昔から、そういうものだ」
みんな、深くうなずいておりましたけれど、よく考えたら、何ひとつ説明になっておりませんわ。
深海にくわしいハンテールさんにも、聞いてみましたの。とても深いところにすんでいるせいで、長いあいだ、ニンゲンに気づいてもらえなかった方ですわ。280万匹の集まりのことを話したら、しばらく黙って、それから、ぽつりと。
「……呼ばれていない」
それだけでしたわ。少し、さびしそうでした。
ほんとうは、海の深いことなら、カイオーガさんに聞くのがいちばんなのですけれど。あの方は、以前、ホウオウさんとの大喧嘩にわたくしが割って入って、少々お叱りして以来、わたくしの顔を見ると、すうっと海の底へ潜っていってしまわれますの。……潜った先が、ペイシェンス海山でないといいのですけれど。
そして、いちばん話が合ったのが、ランターンさんでしたの。
「水深1000メートル? 浅いね」
ランターンさんの光は、もっとずっと深いところから海面まで照らせるのですもの。この方にとっては、ほんとうに浅いのでしょうね。わたくし、思わず、ランターンさんのヒレを、ぎゅっと握ってしまいましたわ。
だって、わたくしも、ずっとそう言ってまいりましたもの。
いつだったか、ドンヨリうみべの沖で、エレズンが、ふしぎなアメを海に落としてしまったことがございましたの。泣きそうな顔をしていたので、わたくし、すぐに潜って、拾ってまいりましたわ。深い水は、正直、あまり得意ではございませんけれど、あのときは、浅かったので。
……あとから、ゲンガーさんが、真っ青な顔で——もとから紫ですけれど——「あそこ、底まで1000メートル以上あるんだぞ」と言いにきましたっけ。浅かったですわ。わたくしが浅かったと申し上げたら、浅かったのですわ。見た目ほど、つぶれやすくはございませんの、わたくし。
ただ——今夜、このお話を知ってから、ひとつ、思い出してしまったことがありますの。
あのとき、底のほうは、まっくらでしたわ。だから、ほっぺから少しだけ電気を灯して、進んでいきましたの。そうしたら、光のとどくぎりぎりのところに、細長い影が、ゆらゆらと揺れておりましたの。ひとつではありません。何重にも、何重にも。右にも、左にも、上にも。
わたくし、てっきり、海藻の森だと思っておりましたわ。「失礼いたしますわね、すぐに帰りますので」とお声をかけて、まんなかを通らせていただきましたの。そうしたら、みなさん、すうっと、道をあけてくださって。
……海藻は、道をあけたりいたしませんわね。
あの海と、タスマニアの海が、同じ海のはずはございませんのに。どうしてかしら。あのときの水の冷たさと、このお話が、ぴったりと重なってしまって、離れませんの。
あの方たちも、あのとき、おなかがからっぽだったのかしら。何かを待っている途中だったから、わたくしのことは、かじらずにいてくださったのかしら。
だとしたら、待つのが終わったあとの、あの方たちは——。
もうひとつ、知ってしまったことがありますの。ペイシェンス海山は、むかし、海の底をさらう漁で荒らされてしまった場所なのですって。それがいま、サンゴが戻りはじめて、少しずつ、元気をとりもどしている。このまま海が元気になっていけば、ウナギさんたちの群れは、もっと大きくなるかもしれないのだそうですわ。
280万匹で、まだ、途中なんですって。
……海が元気になるのは、もちろん、うれしいことですわ。荒れた場所が、少しずつ戻っていく。わたくしたちの街と、同じですもの。ええ、うれしいのですけれど。
気がつくと、シビシラスさんたちは充電を終えて、ケーブルにくるくる巻きついたまま、眠ってしまっておりましたの。細長い体が、何重にも、何重にも重なって、小さな山のよう。わたくしも、起こさないように、そっと隙間から充電させていただきますわ。
それにしても——充電スタンドのまわりのシビシラスさん、さっきより、少し、増えている気がいたしますの。
数えるのは、やめておきますわ。