ムース、という名前の場所で。
夕暮れが、もうそこまで来ておりますわ。
充電スタンドのそばで、春の終わりかけのような、どこかほのかに温んだ空気に包まれながら、ぼんやり目だけ開けておりますの。瓦礫の上に、一日かけて積もった光の残りが、ほんの少しだけオレンジ色に変わっていて——そういう時間帯というのは、何かが起きそうで、何も起きない、静かな予感の色がいたしますわね。
そんな夕方のふちで、遠い国の、なんとも穏やかなお話が、ふうっと頭の中にひろがってまいりましたの。
アメリカのモンタナ州、ボーズマンという街で、あるムースが——ムース、というのは、あの大きな角のある、とても体の立派な、森の方ですわね——街のなかを、てくてく、自分のペースで歩き回っていたそうですの。しかも一日がかりで。
街じゅうのあちこちに現れては、ご近所の方々を驚かせて、まったく悪びれることなく、次の場所へとお移りになる。不動産屋さんの看板の前を走り抜けて、「あの土地に興味があったのかも」とその看板の持ち主の方がフェイスブックに書いていらしたそうですわ。ムースは何も言わずに、ただ走り抜けただけなのですけれど——それを見たニンゲンが、勝手にそう解釈して、うれしそうに投稿する。なんといいますか、動物と仲良くしようとする、ニンゲンのそういうところが、わたくしは、すきですわ。
そして。
そのムースが最後に落ち着いて、お昼寝をした場所が——「ザ・ムース」という名前のラジオ局の建物のそばだったそうですの。
ムースが、ムースという名前の場所で、お昼寝をした。
わたくし、そのお話を聞いたとき、しばらく口元を押さえておりましたわ。笑いたいのか、それとも、なんだかとてもしみじみとしているのか、自分でも、よく、わかりませんでしたの。たぶん、どちらもですわ。
野生動物の担当の方は「街の中への迷い込みは、年に一度くらいはある」とおっしゃって、特に何もしなかったそうで。翌朝には、もういなくなっていたとのこと。一日だけ、ふらっと現れて、街を見て、自分と同じ名前の場所でひと眠りして、また森へ帰っていった。
なんと、自由な一日でしょう。
わたくし、充電スタンドから離れると、お体に響きますの。けれど、もし一日だけ、どこへでも行けるとしたら、どこかに「うすチュウ」という名前の場所がないかしら、と——そんなことを、少しだけ、考えてしまいましたわ。あったとしても、たぶんわたくし、そこで普通にお昼寝するだけですけれどもね。