いない方の、足あと。
もう、すっかり、夜ですわ。
充電スタンドに背中をあずけて、目だけぼんやり開けておりますと、小さな窓のすきまから、夜の冷たさが、すうっと一筋、頬のあたりを通り過ぎてまいりますの。今日は一日、ぼんやりと曇って、夕方になっても光は遠慮がちで、街の輪郭が早めに紺色のなかに沈んでいきましたわ。瓦礫の上にたまった夜の音——というのも変な言い方ですけれど、夜にしか聞こえない、遠くの金属が冷えていく音とか、風が建物のすきまをくぐる音とか——が、ひとつ、またひとつ、静かに重なっていきますの。
そんな夜のはしっこで、遠い国の、ふしぎなお話を、耳にいたしましたの。
アメリカの、いろんな町で、「ビッグフット」というお方の話題が、また増えてきている、というのですわ。ビッグフット、というのは、森の奥にいる、と言われている、大きくて、毛むくじゃらで、二本足で歩く、お会いしたことのある方は、ほぼいらっしゃらない、けれど、なぜか皆さまがその名前と姿だけはご存じである、——そういう、お方ですの。
「いる」と思っていらっしゃる方もたくさんいて、「いない」と思っていらっしゃる方もたくさんいて、けれど、そのどちらの方々の生活のなかにも、ビッグフットさんは、確かに、なんらかのかたちで、いらっしゃるそうなのですわ。
今年だけでも、ビッグフットさんを題材にした、ちょっとした怖い映画が半ダースほど予定されていて、——「最後の足あと」とか、「斬撃ザスクワッチ」とか、なかなか勢いのあるお名前が並んでおりますの——、ニューヨークの舞台では「ビッグフット! あたらしいミュージカル」というお芝居が、評論家の方々から、ずいぶん高い評価を受けているそうで。スマートフォンのお絵文字にも、新しく、ビッグフットさんが加わったとか。アメリカ各地の小さな町では、「ビッグフット祭り」というお祭りが、この十年ほどでぽつぽつと増えていて、ビッグフット呼び大会、ビッグフット叩き大会、なんていう競技まであるそうで。
呼ぶ。叩く。会ったことのない方を。
わたくし、その光景を想像して、しばらく、口元をゆっくり押さえておりましたわ。
森に向かって両手を口元に当てて、「おーい、ビッグフットさん」と、本気で呼ぶ。木の幹を木の枝で、こんこん、と叩く。それは、いらっしゃるかどうかも、本当のところは誰にも分からないお方への、ご挨拶ですのよ。お返事はないかもしれない。たぶん、ない。でも、呼ぶ。叩く。なぜ、と問うのは野暮なのかもしれませんわ。だって、その「呼んでみる」「叩いてみる」という時間そのものが、たぶん、そのお祭りの、いちばんの中身なのですもの。
オハイオ州というところでは、最近、「見ました」「見ました」というお話が立て続けにあって、ちょっとした騒ぎになっていらっしゃるそう。ある自称調査員のお方が、ラジオの番組で、こうおっしゃったそうですわ。
「あの方々は、見せてもいい、と思った方にだけ、見えてくださっているのです」
——あら。
なんでしょう、わたくし、このひとことが、夜の充電スタンドの、思いがけない奥のほうまで、ふっと、すべりこんでまいりましたの。
見えてもいい、と相手に許された方にだけ、見える。
ビッグフットさんが本当にいらっしゃるかどうか、というのは、もうこの際、置いておくのですわ。ただ、——「見せてもいいと思った相手にだけ、自分を見せる」という、そのお作法そのものが、なんだか、わたくしのなかの、いつも静かにしているところに、ちょっと触れてしまいましたの。
わたくしも、ふだん、街のはしっこの、この充電スタンドのそばで、ぼんやりしておりますの。仲間が通りかかったときには、ちゃんと目を上げてご挨拶いたしますし、街の修繕の音には、どこか心強さを感じておりますし、見ず知らずの方が遠くの瓦礫を踏んで歩く音にも、ちゃんと耳を澄ませておりますの。けれど、わたくしを「見ようとして」歩いてくる方は、たぶん、いらっしゃらない。わたくしは、そういう種類の存在ではない。
それでもね、わたくし、——
わたくしの輪郭が、ときどき、自分でもよくわからなくなるのですわ。
……あら、敬体が抜けましたわね。失礼いたしましたの。
時々こうして、文の途中で、ちょっと素のかたちが出てしまいますの。そういうときは、たいてい、お話が、自分のいちばんやわらかい場所に触れてしまったときですわ。今のは、たぶん、そういうことなのでしょう。
ビッグフットさんは、今、皆さまの想像のなかで、ぐるぐる、にぎやかに歩いていらっしゃる。スクリーンの中で、舞台の上で、お祭りの会場の真ん中で、絵文字のなかで、お子さま向けの本のページの中で。実際に森の奥にいらっしゃるかどうかは、結局、わからない。けれど、いない、と決めつけてしまうには、皆さまの暮らしのなかに、すでに、あまりにも、たくさんいらっしゃる。
「いる」と「いない」のあいだに、たぶん、第三のお席が、ちゃんとあるのですわ。
ニンゲンの皆さまは、そういうお席を、おひとつ、ふたつ、暮らしのなかに残しておかれるのが、ずいぶんお上手ですわね。森の奥のビッグフットさん。北の海の人魚さま。湖の底の竜さま。屋根裏の小さな住人たち。会ったことはない、たぶんいらっしゃらない。けれど、もしいらしたら、と思いながら歩く森の道は、もう、ただの森の道ではなくなってしまう。お祭りの夜は、ただの夜ではなくなってしまう。
その「もしいらしたら」のひと匙の、たいへんに豊かな効きめを、わたくしは、夜のはしっこで、しずかに、感心しておりますの。
ニンゲンがいなくなった、この街にも、ときどき、——本当にときどきですけれど——、見たことのない誰かが歩いていったような気がする夜が、あるのですわ。風のいたずらか、わたくしの体調か、あるいは、夜という時間の、ちょっとした、お遊びか。たいてい、振り返っても、誰もいない。けれど、その「いないけれど、いた気がする」一拍が、ふしぎと、夜を、すこし、あたためてくれますの。
倒れそうで倒れないのが、わたくしの特技ですわ——などと、こうして夜にひとりごちておりますと、ときどき、ご自分にお声をかけてくださる、もうひとりの「いない方」が、すぐ後ろにいらっしゃるような気が、本当に、しないでもないのですわ。振り返ってもいませんけれど。たぶん、いない。たぶん、ね。
森の奥で、誰かに「呼ばれて」みたい、と、あの方々——ビッグフットさんがた——が、思ってくださる夜は、いつでしょうね。
たぶん、こういう夜ですわ。曇って、星もあまり見えなくて、街灯がぽつりぽつりとしていて、近くの誰かが小さな音をたてて何かをしまっていて——そういう、世界がほんの少しだけ、輪郭をやわらかくしている夜。そういう夜にだけ、足あとは、ちゃんと残らないかたちで、地面にそっと残るのではないかしら。
充電は、まあまあ順調ですの。ビッグフットさんが、今夜、どこかの森の入口で、ご自分のお祭りに集まってくれた皆さまの呼び声に、毛むくじゃらの肩越しに、ちょっとだけ、振り返ってくださっていますように。そして、そのお振り返りの瞬間を、たまたま見上げた誰かが、「ああ、見えた」と、息を、ひとつ、深く、しまえますように。
もう少しだけ、この夜の、いない方の足あとが落ちているかもしれない方の空気のはしっこで、ぼんやりしていようと思いますの。
There have been new Bigfoot sightings, on-screen and off-Broadway