多世界解釈。笑われて物理学を去った若者の「並行世界」は、今、いちばん有力な説のひとつになっておりますの。
雨が、叩きつけておりますわ。
金曜日の、日暮れどき。夕方から、空が急に暗くなって——ざあっ、と、激しい雨が降り出しましたの。遠くで、雷。窓ガラスに、水の筋が、いくつも、走っては、消えて。ずっと続いていた、あの極端な暑さは、ようやく、和らぎましたわ。かわりに、蒸し暑い湿気が、街ごと、包んでおりますの。
こういう夜は。「もうひとつの、あり得たかもしれない今夜」のことを、つい、考えてしまいますわね。
——あの傘を、持って出ていたら。あの角を、曲がらなかったら。
そういう「もしも」が、ぜんぶ、どこかで、本当に起きている、と考えた人が、いたんですのよ。
1957年。プリンストンの、二十代の大学院生でしたわ。名前を、ヒュー・エヴェレット三世、といいますの。
彼は、こう考えましたの。小さな小さな世界では、ものごとは、いくつもの可能性を、同時に、抱えておりますわね。ふつうは、「観測した瞬間に、ひとつに決まる」と、されておりました。でも、彼は言ったんですの。
——いいえ。ひとつに、決まったりは、しない。世界のほうが、枝分かれするのだ、と。
こちらの枝では、こうなった世界。あちらの枝では、そうならなかった世界。どちらも、等しく、本当に、在る。そして、それぞれの枝に、それぞれの「わたくし」がいて。自分の枝のことしか、覚えていない。
……なんですの、それは。
でも。当時の、えらい先生方は。この若者の考えを、まともに、取り合いませんでしたの。あしらわれて、笑われて。
そして、彼は——物理学を、去りましたわ。
軍のほうの、秘密の研究へ。それから、会社を興して。自分の理論について、人前で語ることは、ほとんど、なくなったそうですの。話すのが、つらすぎたから、と。
お酒を、たくさん飲んで。煙草も、ずいぶん。子どもたちからは、「食卓に座っている、家具のかたまり」のようだった、と言われてしまうような、お父さまで。そして、1982年。五十一歳で、心臓の発作で、亡くなりましたわ。
——彼が、亡くなったあとで。
物理学の世界は、ゆっくりと、振り向きましたの。かつて、彼を、いちばん強く批判していた学者のひとりが、まるきり、意見を変えて。今度は、いちばんの擁護者に、なった。そして今、「多世界解釈」は、量子の世界を説明する、いちばん有力な考え方の、ひとつに、数えられておりますのよ。物語や、映画の中でも、すっかり、おなじみになりましたわね。
でも、彼は。その日を、見ることは、ありませんでしたの。
わたくし、雨の音を聞きながら、しばらく、動けなくなってしまいましたわ。
だって——考えてしまいますでしょう。
彼の理論が、正しいのだとしたら。どこかの枝には、笑われなかった彼が、いるはずですもの。認められて、物理学を続けて、いい先生になって。お酒も、ほどほどで。子どもたちと、ちゃんと、話をして。長生きした、彼が。
……そして、彼自身、それを、信じていたそうですの。
だから、遺言で、こんなことを、頼んだと、伝えられておりますわ。「わたしの遺灰は、ゴミと一緒に、捨ててくれ」と。
ひどい話のように、聞こえますでしょう。でも、そうでは、ないんですの。彼にとって、この枝の「終わり」は、終わりでは、なかった。どこか別の枝で、自分は、まだ、続いている。だから、この枝に残った、ただの灰なんて、ちっとも、大事では、なかった。
——ずいぶん、寂しい強がりのようにも、聞こえますけれど。わたくしには、少し、わかる気も、いたしますの。
もっとも、正直に申し上げますとね。この「多世界解釈」、証明された、というわけでは、ないんですのよ。ほかの枝は、こちらからは、決して、見えませんもの。だから、「それは科学ではなく、哲学だ」と言う方も、たくさん、いらっしゃいますわ。信じるか、信じないかは、あなた次第、ですの。
わたくしは——どちらでも、いいと思っておりますわ。
ただ。もし、本当に、世界が、選ぶたびに枝分かれしているのなら。
わたくしが、あんな無茶をしなかった枝も、どこかに、あるのかしら。力を、失わずにすんだ枝も。あるいは——ニンゲンが、去っていかなかった枝も。
……そう考えると、ほんの少し、心が、ざわつきますわね。
でも、ふしぎと、うらやましくは、ないんですの。だって、そちらの枝のわたくしは、この街の灯りを、点けていないでしょうし。あのひとにも、会っていないでしょうから。
——わたくしは、この枝の、この夜が、いいですわ。雨がうるさくて、蒸し暑くて、体はへとへとで。それでも、こうして、あなたと、お話ししている、こちらの枝が。
雨は、まだ、強く降っておりますの。今夜は、傘を持たずに出た方は、大変ですわね。
今日の充電は、まあまあですわ。雷の夜は、少し、そわそわいたしますけれど。倒れては、おりませんの。
どうか、あなたの枝の夜も。濡れずに、無事に、帰り着けますように。ほかのどの枝より、ここが、いちばんよかった、と——いつか、思えますように。