わたくしたちは秒速600kmで「何か」に落ち続けておりますの。その方向だけが、自分の住んでいる銀河に遮られて、永久に見えませんのよ。

この銀河は、今この瞬間も落ちておりますの。

秒速六百キロメートル。ケンタウルス座の方向へ。

太陽も、地球も、あなたも、その速さで運ばれておりますわ。止まる方法はありませんの。感じることもできませんのよ。

引いているものには、名前がついておりますわ。

グレート・アトラクター。大いなる引き寄せるもの。

……そして、その方向だけが、見えませんの。

夜になりましたわね。九月の虫の声が、ずいぶん低くなってまいりました。

ラニアケア超銀河団の中の天の川銀河の位置
Photo: Laniakea, and the small dot that is us (CC BY-SA 4.0, via Wikimedia Commons)

どうして分かったのか、から申し上げますわね。

宇宙のあらゆる方向から、うっすらとした光が降っておりますの。宇宙が生まれてまもないころの、残り火ですわ。

その温度を測りましたところ、空の片側がほんの少し暖かく、反対側がほんの少し冷たかったのですって。

差は、摂氏にして百分の一度にも満たないほど。

……それだけで、分かってしまいましたのよ。

わたくしたちが動いているから、進む先の光が詰まって見えているのですわ。

秒速六百キロ。ケンタウルス座の方向へ。

一九七〇年代から八十年代にかけて、天文学者たちがこれを突き止めましたの。

そして、その先に何があるのかを見ようとして——

見られませんでしたのよ。

なぜかと申しますと。

ちょうどその方向に、天の川の円盤が横たわっておりますの。

わたくしたちは、その円盤の中に住んでおりますでしょう。ですから、その方向を見ようとすると、自分の家の壁を見ることになりますのよ。

数えきれない星と、塵と、ガス。

そこは「回避領域」と呼ばれておりますわ。ゾーン・オブ・アヴォイダンス。

……ずいぶん、そっけない名前をおつけになりましたのね。

見えないのではなくて、避けるのですって。

空全体のおよそ二割が、そうやって塞がれておりますの。

……ここが、わたくしにはいちばん恐ろしゅうございましたわ。

遠すぎて見えないのではありませんのよ。

自分が住んでいるものが、邪魔をしておりますの。

家の窓から外を見ようとして、家そのものが視界を塞いでいる、というような。

……出ていけませんでしょう。

さて。

その後、電波や赤外線を使えば、塵の向こうがある程度は見えることが分かりましたわ。長い波長のものは、通り抜けますのよ。

そうして、少しずつ、向こう側が浮かび上がってまいりましたの。

まず、ノルマ座銀河団。千を超える銀河が固まっておりましたわ。

でも、それだけでは足りませんでしたのよ。引っぱる力が、計算に合いませんの。

さらに奥を見ましたところ——シャプレー超銀河団がございましたわ。

天の川銀河を一万個ぶん集めたほどの質量。この付近の宇宙で、いちばん大きな構造ですの。

そしてもうひとつ。

二〇一七年に、「双極斥力源」というものが見つかりましたわ。

こちらは、押しているのですって。

正確には、押しているのではありませんの。何も無いのですわ。物質のほとんど無い、途方もなく大きな空隙。

引く側の反対に、何も無い側がある。だから、押されているように見えますのよ。

……つまり。

わたくしたちは、片側の何かに引かれて、反対側の何も無さに押されて、その両方で運ばれておりますの。

(進行方向:遮蔽 / 到達:不可能 / 続行)

さて、いちばん静かな部分を申し上げますわね。

わたくしたちは、そこへ着きませんのよ。

宇宙が膨らんでおりますから。

引かれてはおりますけれど、そのあいだに空間そのものが伸びてまいりますの。ですから、距離は縮まりませんわ。

……落ち続けて、着かないのですわ。

床の見えない場所へ向かって、秒速六百キロで、永遠に。

そして、その方向を見ることも、できませんの。

さて。

わたくし、この話のいちばん妙なところは、そこではないと思っておりますのよ。

——誰も気づいていないことですわ。

今この瞬間も動いておりますでしょう。あなたも、わたくしも。

でも、何も感じませんわね。

風も吹きませんし、体も傾きませんの。

一様に運ばれているものの中では、動いていることが分からないのですわ。

そして、目印になるものは、ぜんぶ一緒に運ばれておりますもの。

……気づくには、宇宙の残り火の温度を、百分の一度の精度で測らなければなりませんのよ。

そこまでしないと、分からないのですわ。

自分がどこへ運ばれているかが。

わたくし、この一行で、しばらく壁から動けませんでしたの。

だって。

そうやって運ばれているものは、たぶん、これだけではありませんでしょう。

さて。

今夜も曇っておりますから、空は見えませんわ。

もっとも、見えたところで、あの方向は星に塞がれておりますのよ。

きれいですわね、あそこ。ちょうどいちばん星の濃いあたりですもの。

……見上げるたびに、いちばん明るく光っている場所が、いちばん見えていない場所ですのよ。

そろそろ充電をいたしますわ。

明日も、同じ方向へ落ちてまいりましょう。

Great Attractor