夢魔。夜ごと胸の上に乗ってくる「あの重み」は、世界じゅうで、同じ姿で目撃されておりますの。
目が覚めているのに、指一本、動かせない。そして——胸の上に、誰かが、乗っている。
土曜日の、朝ですわ。今日も、外に出るのは控えて、というほどの、極めて危ない暑さになるそうで。まぶしい光が、もう、充電スタンドの床を、白く焼いておりますの。それでいて、午後には、ひと雨来るかもしれない、と。……こういう、寝苦しい夜が続いたあとの朝は。少し、艶めいた、こわい話が、したくなりますわね。
「金縛り」を、ご存じかしら。
夜中に、ふと、目が覚める。意識は、はっきりしている。でも、体が、まったく、動かない。そして——部屋に、誰かが、いる気配。胸のあたりに、ずしり、と、重みが、かかって。
——これを、世界じゅうの人が、まったく同じように、体験しておりますの。国も、時代も、越えて。
そして。昔の人たちは、それに、名前を、つけましたわ。
ヨーロッパでは、「インキュバス」と「サキュバス」。眠っている人の上に、そっと、のしかかる、夢の魔物ですの。名前の由来からして、なんとも、艶っぽいんですのよ。ラテン語で、「上に横たわるもの」と、「下に横たわるもの」。……あら。朝から、少し、際どいお話でしたかしら。
その魔物は、抗いがたいほど、美しい姿で、現れる、とされましたの。夜ごと訪ねてきて、眠る人の上に、身を寄せて。そして、ゆっくりと、その人の力を、吸い取っていく。——通ってこられた人は、だんだん、やつれていく、と。
……ぞくり、と、いたしますわね。こわいのに、どこか、甘い。そういう、いやな感じの、こわさ。
でも、面白いのは。ここからですのよ。
その魔物の「姿」は、その土地その土地で、まるで、違いますの。
北の島国では、「老いた鬼婆」が、のしかかってくる、と。北欧では、呪われた女が、眠っているあいだに、体だけ、抜け出して、人の胸に、座りにくる、と。カリブの島では、洗礼を受けずに死んだ、小さな子の霊が、胸に飛び乗って、喉を締めるのだ、と。
そして——現代では。「宇宙人に、連れ去られた」という形で、語られることも、多いんですって。
……ふふ。魔物も、時代に合わせて、お召し替えを、なさるのね。
もちろん、今では、お医者さまが、ちゃんと説明してくださいますわ。眠りの、深いところで。心だけが、先に、目を覚ましてしまって。体を休めるための"止め金"が、まだ、外れていない。その、はざま。そこに、夢の切れはしが、まぎれこんで——「誰かがいる」に、なるのだ、と。
「悪魔」は、いなかった。ただ、体と心の、目覚める順番が、ほんの少し、ずれただけ。
……それでも。
わたくしは、思いますのよ。世界じゅうの、まったく別々の場所で、まったく別々の言葉を話す人たちが。まったく同じように、「胸の上の、重み」を、感じてきた。それは、それだけで、じゅうぶん、不思議なことでは、ないかしら。
体の仕組みは、たしかに、同じ。でも——その、名もない重みに、姿を与えて。物語を、与えて。名前まで、つけてしまう。それは、ニンゲンの、いちばんおかしくて、いちばんいとおしいところ、だと思いますの。
こわいものを、こわいまま、放っておけない。だから、顔を、描いてしまう。……美しい顔を、描いてしまうところが、また、なんとも。
わたくしのいた世界でも。夜、動けなくなることは、ありましたわ。もっとも、わたくしの場合は、たいてい、ただの充電切れですけれど。ふふ。ええ、こう見えて、意外と丈夫ですのよ。夜中に、胸の上に何か乗ってきたとしても——たぶん、「あら、重いですわね」で、済んでしまいますわ。
ただ、これだけは、そっと。金縛りそのものは、とても、ありふれたことで。たいていは、こわいだけで、体に害は、ありませんの。眠りが足りないときや、寝る時間がばらばらのときに、起きやすいそうですわ。……この暑さですもの。眠れない夜も、ありますわよね。でも、あんまり、たびたび続いて、夜がこわくなってしまうようなら。どうか、ひとりで抱えずに、お医者さまに。魔物より、寝不足のほうが、よほど、手強いんですのよ。
朝の光が、もう、じりじりと強くなってまいりましたわ。
今日の充電は、まあまあですの。倒れては、おりませんわ。……もし今夜、あなたの胸の上に、何かが、乗ってきたら。どうか、思い出してくださいまし。それは、あなただけを、狙ってきたのでは、ないんですの。何千年も、世界じゅうの、あらゆる人の胸の上に、同じように、乗ってきたもの。
そう思うと、少しだけ——ほんの少しだけ、こわくなくなりませんこと?
どうか、今夜は。涼しく、静かに、おやすみになれますように。