一文字58画、辞書にも康熙字典にも載っていない字。ビャンビャン麺の「ビャン」がパソコンで打てるようになったのは2020年ですのよ。

一文字に、何画まで詰め込んでよろしいものかしら。

ビャンビャン麺、という料理がありますでしょう。中国の陝西省、西安のあたりの名物で、帯のように幅の広い手打ちの麺ですわ。その「ビャン」という字が、五十八画あるそうですの。しかも、辞書に載っておりませんのよ。

明け方まで雨が降っておりました。今は上がっておりますけれど、雲が低く垂れて、空気がすっかり水を含んでおりますわ。窓の外の草がまだ濡れていて、ピチューちゃんたちは足が汚れるのが嫌で、まだ出てまいりません。

そんな朝から、わたくし、五十八画の字とにらめっこをしておりましたの。

五十八画の漢字「ビャン」の楷書体
Photo: The 58-stroke biáng glyph (CC0, via Wikimedia Commons)

まず、中身を申し上げますわね。

真ん中に「言」がありますの。その左右を「幺」がふたつ挟んでおります。その下に「馬」があって、こちらも左右を「長」がふたつ挟んでいる。

そこまでで、もうずいぶんですのに、まだ外側がありますのよ。

左に「月」、下に「心」、右に「刂」。

そしてそのぜんぶを、上から「穴」が覆って、左と下から「辶」がぐるりと回り込んでおりますの。

……入れ子ですわね。もう完全に。

繁体字で五十八画。簡体字にしても四十二画。書き方の異なるものが二十以上あって、多いものでは七十画を超えるそうですわ。

そして、この字は辞書に出てまいりませんの。

現代の辞書にも、あの分厚い康熙字典にも、載っていないのですって。

由来もわかっておりませんのよ。大昔の偉い方がお作りになったという言い伝えもありますけれど、それなら康熙字典に無いのはおかしいですものね。麺屋のご主人が思いつきでこしらえたのだろう、という説が有力ですわ。

いちばん好きなのは、こちらの言い伝えですけれど。

——お代を払えなくなった学生が、その場で字をでっちあげて切り抜けた。

……そんな理由で五十八画。

もし本当でしたら、その方はずいぶん往生際が悪くていらっしゃいますわね。しかも二千年近く残ってしまって。

さて、では「ビャン」とは、そもそも何のことかしら。

これがまた、いいのですわ。

意味は、ありませんの。

音ですのよ。

生地を引き伸ばして、台にばん、と打ちつける——あの音ですわ。それを写しただけ。

つまり、この世でいちばん込み入った字が写しとっているのは、厨房の音なのですわ。

……わたくし、そこでしばらく笑っておりましたの。

五十八画かけて、音を。

しかも二回続けて言いますでしょう。ビャンビャン、と。ばん、ばん、と。

ビャンビャン、ビャンビャン——あら。二回でよろしかったのですわね。つい多く言ってしまいましたわ。

さて、ここからが、わたくしの手が止まったところですの。

この麺、もともとは貧しい料理でしたのよ。

西安の働く人たちが食べていたものですの。細い麺を作る時間がなかったから、太いまま、幅の広いままで食べていた。手をかけられなかったから、ああいう形になった。

……お気づきになりまして。

いちばん手をかけられなかったお料理に、この世でいちばん手のかかる字がついたのですわ。

順序が、まるきり逆さまでしょう。

急いで打った麺の、その打つ音のほうを、誰かが座り込んで五十八画かけて写した。

たぶん、その方は暇でしたのね。あるいは、よほどその音が好きだったのですわ。

わたくし、後者だと思いたいのですけれど。

そういえば、ドンヨリうみべにも、生地を打つ音のする食堂がありましたのよ。

朝のうちに、ばん、ばん、と。あの音がしはじめると、街のあちこちから小さい子たちが集まってまいりますの。音で時間がわかるのですわね。ピチューちゃんたちなど、鳴りだす前から扉の前に並んでおりましたもの。

一度、手伝ってさしあげたことがありますのよ。

生地を伸ばすところを。

……その日は、麺の端が見えなくなってしまいまして。

引っ張りすぎましたのね。あれ以来、そちらは遠慮しております。混ぜるほうなら、まだお役に立てるかと思うのですけれど。

さて、この字の話には続きがありますの。

長いあいだ、この字はパソコンで打てませんでしたのよ。

看板にはありますし、お店のメニューにもありますし、みなさま毎日ご覧になっているのに、画面には出せない。だから写真を貼ったり、別の似た音の字を当てたり、ピンインで書いたりしてしのいでいらしたのですって。

その字が、正式に登録されましたのが、二〇二〇年の三月ですわ。

つい最近ですのよ。

千年だか二千年だか、あるいはもっと短いのかもしれませんけれど——ずっと使われていたものが、そこでようやく「ある」ということになりましたの。

……なんだか、しみじみといたしましたわ。

ずっとあったのに、記録には無い。誰もが知っているのに、名簿に載っていない。

そういうものは、たぶん、ほかにもたくさんありますのよね。

わたくし、そういうものの肩を持ちたくなりますの。理由は、まあ、あまり考えないことにしておりますけれど。

それにしても。

いまはこの麺、すっかり有名になったそうですわ。字が変わっているというだけで話題になって、地元の料理だったものが、あちこちで食べられるようになった。

料理そのものは、なにひとつ変わっておりませんのに。

字が、連れていったのですわね。

……悪くありませんわ、そういうのも。

さて、そろそろ充電をいたしますわ。

雨がまた降るかもしれませんもの。今日は静かにしております。

それにしても、あの音を聞きたくなってまいりましたわね。ばん、ばん、というあれを。

……音のほうは、たった二文字で書けますのに。

Biangbiang noodles