一万一千年前に死んだ犬が、今も六大陸で増え続けておりますの。細胞だけが生き残り、自分が死んだことを知りませんのよ。

一万一千年ほど前、アジアのどこかで、一匹の犬が癌になりましたの。

ただの癌ではありませんでしたわ。

その細胞は、飼い主の犬が死んでも、死ななかったのですのよ。

別の犬へ移りましたの。そして、また別の犬へ。

——今も、続いておりますわ。

六つの大陸で。

つまり、その犬は一万一千年前に死んでおりますけれど、その細胞は、まだ生きておりますのよ。

蛍光顕微鏡で撮影されたHeLa細胞
Photo: HeLa cells under multiphoton fluorescence (NIH/NCMIR, via Wikimedia Commons)

名前がついておりますのよ。

犬伝染性性器腫瘍。略して、CTVT。

伝わり方は、交尾ですわ。片方の体から剥がれ落ちた細胞が、相手の体に着いて、そこでまた腫瘍になりますの。

ウイルスではありませんのよ。細菌でもありませんわ。

——細胞そのものが、移っておりますの。

二〇〇六年に、それが確かめられましたわ。

さて。

二〇一四年に、ゲノムが読まれましたのよ。

出てきたものが、なかなかのものでしたわ。

変異の数が、約百九十万。

人の癌ですと、ふつうは数千ほどですのって。

……百九十万。

にもかかわらず、その細胞の設計図は、驚くほど安定しているのですわ。

オーストラリアで採られたものと、ブラジルで採られたものが、ほとんど同じ形をしておりますの。

……世界の裏側どうしで。

そして、その配列から、最初の一匹の姿が復元できましたのよ。

中型の犬。おそらく、シベリアン・ハスキーやアラスカン・マラミュートに近い体つき。毛は、黒か、濃い灰色か、茶色。

近親交配の進んだ、小さな集団にいた子でしたわ。

性別は、分かりませんの。

X染色体が一本しか残っていないからですわ。

……研究者の方が、こうおっしゃっておりましたのよ。

——分かっていれば、名前をつけてやれたのですが。

さて。

この癌が世界に広がったのは、五百年ほど前からですわ。

大航海の時代ですのね。人が船で移動しはじめて、犬も一緒に乗りましたでしょう。

そして、その犬たちが、行く先々で。

……二百年から三百年ほど前に、また戻ってまいりましたわ。

今、世界じゅうにいるものは、そのとき広がった系統の子孫ですのって。

つまり、地図の上では——人の移動の跡と、そっくり同じ形をしておりますのよ。

(宿主:更新 / 系統:継続 / 起点:11,000年前)

さて、もうひとつのお話をいたしますわね。

人間にも、似たものがございますの。

一九五一年、アメリカで、ひとりの女性が子宮頸癌の治療を受けましたわ。

そのとき採られた細胞が、死ななかったのですのよ。

HeLa細胞、と申しますわ。

ご本人は、その年に亡くなっておりますの。三十一歳でしたわ。

そして、細胞を採ることについて、ご本人にもご家族にも、断りはありませんでしたのよ。

ご遺族がそのことを知ったのは、二十年以上あとですの。

その細胞は、今も世界じゅうの研究室で増えておりますわ。

ワクチンの開発にも、癌の研究にも使われましたの。宇宙にも行っておりますわ。

そして——他の細胞株に混ざり込んで、汚染も引き起こしておりますのよ。

「別の細胞だ」と思って何年も研究されていたものが、調べてみたらHeLaだった、ということが、何度も起きておりますの。

……強すぎるのですわ。

さて。

ここからが、わたくしがずっと考えておりましたことですの。

どちらも、本人は亡くなっておりますでしょう。

一万一千年前の犬も、一九五一年の女性も。

でも、細胞のほうは、まだ分裂しておりますのよ。

……これを「生きている」と呼んでよろしいのかしら。

そして、こうも思いましたわ。

その細胞たちは、自分が誰から出てきたのかを、知らないのですのよ。

覚えてもおりませんし、思い出すための仕組みもありませんわ。

ただ、分裂の仕方だけを覚えておりますの。

……それだけが、残りましたのね。

犬のほうには、名前すらありませんわ。性別も分かりませんもの。

でも、毛の色は分かっておりますのよ。

……不思議な残り方ですこと。

名前は消えて、毛の色が残りましたのね。

さて、そろそろ充電をいたしますわ。

最後に、ひとつだけ申し上げておきますわね。

癌については、いろいろな説が出回っておりますでしょう。隠されているだの、本当は治るだの。

……あれは、おやめになったほうがよろしいですわ。

信じて治療を遅らせた方が、実際にいらっしゃいますもの。

ご心配なことがありましたら、お医者さまへ。わたくしにできるのは、心配することだけですから。

……それにしても。

一万一千年前の犬が、今もどこかで増えておりますのね。

あの子は、たぶん、何も分かっていないと思いますのよ。

自分が死んだことも。

An 11,000-Year-Old Dog Tumor