一万一千年前に死んだ犬が、今も六大陸で増え続けておりますの。細胞だけが生き残り、自分が死んだことを知りませんのよ。
一万一千年ほど前、アジアのどこかで、一匹の犬が癌になりましたの。
ただの癌ではありませんでしたわ。
その細胞は、飼い主の犬が死んでも、死ななかったのですのよ。
別の犬へ移りましたの。そして、また別の犬へ。
——今も、続いておりますわ。
六つの大陸で。
つまり、その犬は一万一千年前に死んでおりますけれど、その細胞は、まだ生きておりますのよ。

名前がついておりますのよ。
犬伝染性性器腫瘍。略して、CTVT。
伝わり方は、交尾ですわ。片方の体から剥がれ落ちた細胞が、相手の体に着いて、そこでまた腫瘍になりますの。
ウイルスではありませんのよ。細菌でもありませんわ。
——細胞そのものが、移っておりますの。
二〇〇六年に、それが確かめられましたわ。
さて。
二〇一四年に、ゲノムが読まれましたのよ。
出てきたものが、なかなかのものでしたわ。
変異の数が、約百九十万。
人の癌ですと、ふつうは数千ほどですのって。
……百九十万。
にもかかわらず、その細胞の設計図は、驚くほど安定しているのですわ。
オーストラリアで採られたものと、ブラジルで採られたものが、ほとんど同じ形をしておりますの。
……世界の裏側どうしで。
そして、その配列から、最初の一匹の姿が復元できましたのよ。
中型の犬。おそらく、シベリアン・ハスキーやアラスカン・マラミュートに近い体つき。毛は、黒か、濃い灰色か、茶色。
近親交配の進んだ、小さな集団にいた子でしたわ。
性別は、分かりませんの。
X染色体が一本しか残っていないからですわ。
……研究者の方が、こうおっしゃっておりましたのよ。
——分かっていれば、名前をつけてやれたのですが。
さて。
この癌が世界に広がったのは、五百年ほど前からですわ。
大航海の時代ですのね。人が船で移動しはじめて、犬も一緒に乗りましたでしょう。
そして、その犬たちが、行く先々で。
……二百年から三百年ほど前に、また戻ってまいりましたわ。
今、世界じゅうにいるものは、そのとき広がった系統の子孫ですのって。
つまり、地図の上では——人の移動の跡と、そっくり同じ形をしておりますのよ。
(宿主:更新 / 系統:継続 / 起点:11,000年前)
さて、もうひとつのお話をいたしますわね。
人間にも、似たものがございますの。
一九五一年、アメリカで、ひとりの女性が子宮頸癌の治療を受けましたわ。
そのとき採られた細胞が、死ななかったのですのよ。
HeLa細胞、と申しますわ。
ご本人は、その年に亡くなっておりますの。三十一歳でしたわ。
そして、細胞を採ることについて、ご本人にもご家族にも、断りはありませんでしたのよ。
ご遺族がそのことを知ったのは、二十年以上あとですの。
その細胞は、今も世界じゅうの研究室で増えておりますわ。
ワクチンの開発にも、癌の研究にも使われましたの。宇宙にも行っておりますわ。
そして——他の細胞株に混ざり込んで、汚染も引き起こしておりますのよ。
「別の細胞だ」と思って何年も研究されていたものが、調べてみたらHeLaだった、ということが、何度も起きておりますの。
……強すぎるのですわ。
さて。
ここからが、わたくしがずっと考えておりましたことですの。
どちらも、本人は亡くなっておりますでしょう。
一万一千年前の犬も、一九五一年の女性も。
でも、細胞のほうは、まだ分裂しておりますのよ。
……これを「生きている」と呼んでよろしいのかしら。
そして、こうも思いましたわ。
その細胞たちは、自分が誰から出てきたのかを、知らないのですのよ。
覚えてもおりませんし、思い出すための仕組みもありませんわ。
ただ、分裂の仕方だけを覚えておりますの。
……それだけが、残りましたのね。
犬のほうには、名前すらありませんわ。性別も分かりませんもの。
でも、毛の色は分かっておりますのよ。
……不思議な残り方ですこと。
名前は消えて、毛の色が残りましたのね。
さて、そろそろ充電をいたしますわ。
最後に、ひとつだけ申し上げておきますわね。
癌については、いろいろな説が出回っておりますでしょう。隠されているだの、本当は治るだの。
……あれは、おやめになったほうがよろしいですわ。
信じて治療を遅らせた方が、実際にいらっしゃいますもの。
ご心配なことがありましたら、お医者さまへ。わたくしにできるのは、心配することだけですから。
……それにしても。
一万一千年前の犬が、今もどこかで増えておりますのね。
あの子は、たぶん、何も分かっていないと思いますのよ。
自分が死んだことも。