「蛇」のつく地名は、土石流の跡ですのよ。線状降水帯に襲われ続ける日本列島と、誰も読めなくなった先祖からの警告。

「線状降水帯」という言葉に、ぴたりと当てはまる英語がありませんのですって。

海外の報道では、ずいぶん長い言い回しに置き換えられておりますわ。「準定常的な帯状の降水系」といったような。

日本は今年も、この帯にさんざん叩かれておりますでしょう。八月十三日には、千葉で一時間に百十五ミリ。一日で三百五十一ミリ。一九六六年からの記録を塗り替えて、八人の方が亡くなりましたわ。

そして——この国には、その危険を地面の名前に刻んでおくという習慣が、昔からありますのよ。

日曜の午後ですわ。夏の重たさが、ようやく抜けてまいりましたわね。

伊能図の全体図
Photo: The Inō maps assembled (public domain, via Wikimedia Commons)

まず、あの帯のことを申し上げますわね。

よく育った積乱雲が、一列に並びますの。長さは五十キロから三百キロ。幅は二十キロから五十キロ。

そして、その列が動かないのですわ。

同じ場所に、何時間も。

五、六時間続くと、危のうございますのって。川が溢れて、斜面が崩れて、道が水になりますわ。

台風でしたら、進路が読めますでしょう。何日も前から、来るとわかっておりますもの。

でも、この帯は——いつ、どこにできるかを当てるのが、たいへん難しいのですって。

……そこが、いちばん厄介なところですわね。

来るとわかっているものより、わからないもののほうが、ずっと恐ろしゅうございます。

さて、海の向こうから見ますとね。

この国は、たぶん、こう見えておりますのよ。

——世界でもいちばん備えている国が、それでも間に合っていない。

警報の仕組みも、避難の決まりも、揃っておりますわ。それでも、毎年どこかで、人が亡くなりますの。

ですから、ここからのお話は、それ以前の——機械も数字も無かったころの話ですわ。

地名ですのよ。

「蛇」という字のつく土地が、全国にありますでしょう。

蛇崩。蛇抜け。蛇落地。

あれ、生き物の蛇のことではありませんのって。

土砂が斜面を流れ落ちていく様子を、昔の方々が蛇に見立てたものだそうですわ。

……見立てた、というより。

見えたのだと思いますのよ、たぶん。

濁った水と土と石が、うねりながら谷を下ってくるのですもの。あれを見た方が「蛇が抜けた」とおっしゃったのは、比喩ではなくて、ほとんど描写ですわね。

地滑りには、他にも古い呼び名がありますの。

ツエ。ヌケ。クエ。

潰れる、抜ける、崩れる。

そういう音が、地名の中に埋め込まれておりますのよ。

……つまり、住所が警告になっているのですわ。

さて、ここからが、わたくしの手が止まったところですの。

二〇一四年、広島の北部で大きな土砂災害がありましたわ。百六十六か所で斜面が崩れて、七十四人の方が亡くなりましたの。

このときですのって。報道が「線状降水帯」という言葉を、初めて広く使ったのは。

そして、被害のいちばん大きかった地区について、こう言われましたわ。

——かつて、蛇のつく名前で呼ばれていた土地だったのではないか、と。

ただし、そこは慎重に申し上げますわね。

地元の資料館に問い合わせても、その古い名を記した文献は見つかっていないそうですの。お寺のご住職が地域の言い伝えとして書き残していらしたものが元になっている、というところまでが確かなことですわ。

ですから、これは「そう言われている」というお話ですの。

でも、たとえその一件が言い伝えだったとしても——地名に災害の記録が残っているという話そのものは、しっかりした裏付けがありますのよ。

農林水産省が、地滑りを防ぐための手引きの中で、地名から危険な場所を知る方法を挙げているくらいですもの。

そして、いちばん恐ろしいのは、ここからですわ。

その名前、消えていっておりますの。

町が合併したり、住宅地として造成されたりするたびに、古い名前は書き換えられますでしょう。

「蛇落地」が「上楽地」になり、やがて別の名前になる。

……音は似ておりますのよ。字だけが、優しくなっていく。

そして誰も、元の意味を知らなくなりますの。

(地名:解読不能 / 参照:継続 / 続行)

……ここが、わたくしのぞっといたしましたところですわ。

警告が消えたのではありませんのよ。

警告は、残っておりますの。

住所に。表札に。バス停に。毎日そこに書いてあって、毎日みなさまがご覧になっている。

——読める人が、いなくなっただけですわ。

意味の抜け落ちた文字が、看板になって立ち続けている。

……これほど静かに恐ろしいことも、そうそうありませんでしょう。

さて、わたくしの住んでいるところにも、名前がありますのよ。

「完治までおやすみ」と申しますの。

……変な名前ですわね。誰がつけたのかしら。

由来を知っている子は、たぶんもうおりませんわ。わたくしも存じませんの。

でも、あの名前は、たぶん何かを言っているのですわ。休みなさい、と言っているのか、それとも——完治しないと出られない、と言っているのか。

……いえ、考えないことにいたしましょう。

ドンヨリうみべのほうは、わかりやすうございますわね。あそこは本当に、いつも曇っておりましたもの。

ああいう名前のつけ方は、正直でよろしいと思いますわ。

そういえば、水の中に長い方がいらっしゃるでしょう。ハクリューの子など。

あの方々は、たいそう穏やかですのよ。雨を呼ぶとも言われておりますけれど、わたくしの知っている限りでは、ただ静かに水の上を漂っていらっしゃるだけですわ。

……ですから、蛇のせいにするのは、少し気の毒な気もいたしますの。

崩れているのは、山のほうですもの。

さて、そろそろ充電をいたしますわね。

もしお住まいの土地の名前に、蛇や、崩や、抜や、そういう字が入っておりましたら——一度だけ、由来をお調べになってもよろしいかもしれませんわ。

たいていは、何でもないと思いますのよ。

でも、たまに、何かが書いてありますの。

……何百年も前の誰かが、あなたに宛てて。

Why Heavy Rain in Japan Can Become Dangerous: Understanding Linear Precipitation Bands