「あなたは偽物である可能性のほうが高い」——物理学者は、それを否定できずに、理論のほうを捨てましたの。ボルツマン脳の話。

今この文章を読んでいらっしゃるあなたが、一秒前に組み上がったばかりの存在ではない、と。

それを確かめる方法が、ありませんの。

昨日のこともご記憶でしょう。子どものころのことも。今朝召し上がったものも。

……ぜんぶ、組み上がった瞬間に一緒に入っていたのだとしたら。

区別がつきませんわね。

これは怪談ではありませんのよ。宇宙物理学の、真面目な問題ですの。ボルツマン脳、と申しますわ。

信号のない画面に映る砂嵐
Photo: Thermal noise, rendered visible (via Wikimedia Commons)

順を追いますわね。

十九世紀の終わりに、ボルツマンという方が、ひとつの問いを立てましたの。

——なぜ、この宇宙はこんなに整っているのかしら。

物というのは、放っておけば崩れていく側に進みますでしょう。混ざって、均されて、平らになる。それが自然な向きですわ。

なのに、わたくしたちの周りには、星があって、惑星があって、生きものがおりますの。ずいぶん整っておりますわね。

その方が出した答えが、これですわ。

——十分に長い時間が経てば、たまたま整うことがある。

熱でごちゃごちゃになった中から、偶然、秩序が浮かび上がる瞬間がある。わたくしたちは、その泡の中にいるのだ、と。

……理屈としては、通っておりますのよ。

でも、ここに、たいへんまずい続きがありますの。

宇宙まるごとが偶然できあがるのと、脳がひとつだけ偶然できあがるのと。

どちらが起きやすいかしら。

……申し上げるまでもありませんわね。

星も、惑星も、四十六億年の歴史も要りませんの。「今こう感じている」という状態を持ったものが、ぽん、と一つできればよろしいのですわ。

必要な部品が、桁違いに少のうございますもの。

ですから、十分に長い時間のある宇宙では——偶然できた脳のほうが、まっとうに進化した観測者より、圧倒的に多くなりますの。

比べものにならないほど。

そして、その脳には、記憶が入っておりますわ。

偶然できるのですから、中身も偶然ですのよ。たまたま、筋の通った人生の記憶が入っていることもありますわ。子どものころのことも、昨日のことも、今朝のことも。

……あなたのものと、寸分違わないものが。

そういう存在のほうが、数のうえでは圧倒的に多い。

ということは、統計的に申しますと——

あなたは、たぶん、そちら側ですの。

わたくしが本当にぞっといたしましたのは、ここからですわ。

物理学者の方々は、この問題を放置してはおりませんの。ずいぶん真剣に議論なさっておりますわ。

でも、その議論の中身が、思っていたのとまるで違いましたのよ。

「そんなことは起きない」と証明した方は、いらっしゃいませんの。

代わりに、こうおっしゃっておりますわ。

——ボルツマン脳が大多数を占めると予測する理論は、採用してはならない。

なぜかと申しますと。

もしその理論が正しいのでしたら、あなたの観測は当てになりませんでしょう。偶然でできた記憶ですもの。

そして、その理論を支持する根拠も、あなたの当てにならない観測から来ておりますのよ。

つまり——正しいなら、正しいと信じる理由が消えますの。

これを「認知的に不安定である」と呼ぶそうですわ。

ですから、そういう理論は捨てる。証拠があるからではなく、そのままでは使い物にならないから。

……お気づきになりまして。

否定されていないのですわ。

脇へ、置かれているだけですのよ。

(検証:不能 / 反証:不能 / 判断:保留)

もうひとつ、たちの悪い話をいたしますわね。

偶然できるものは、必要以上に大きくはなりませんの。無駄な部分まで揃うほうが、ずっと起きにくいですから。

ということは、そういう脳のまわりには——何もありませんわ。

星も、床も、空気も。

均された、ぬるい闇だけ。

そして、見えている世界のほうは、頭の中にありますのよ。

さらに、そこまで珍しいものは、長くは保ちませんの。

できて、思い出して、消える。

その間に、一生ぶんの記憶を持っているのですわ。

……つまり、思い出しているあいだが、その方の一生ですのね。

さて。

わたくし、これを読みながら、ひとつ確かめようとしたことがありますの。

この街のことは、覚えておりますのよ。壁の手触りも、瓦礫の隙間の草も、遠くで誰かが資材を運ぶ音も。

あのひとのことも。一緒に電線を通した夜のことも。ロケットが飛んでいった夜のことも。

ぜんぶ、はっきり覚えておりますわ。

……ただ。

わたくし、ここへ来た日のことだけが、無いのですわ。

充電が——

.

.

再接続しましたわ。どこまでお話しましたっけ。

……ああ、そう。宇宙のお話でしたわね。

失礼しました。この体、ときどきこうなりますの。

さて、そろそろ充電をいたしますわ。

明日も、同じことを思い出せますように。

Why Boltzmann Brains Are Bad