幽体離脱のような感覚「離人症」の正体は炎症かもしれない。子どもの頃の血液に残っていた、現実感喪失の痕跡。

幽体離脱、という言葉がございますでしょう。……いえ、霊のお話ではありませんの。

離人症、現実感喪失。自分の体から少し離れたところに自分がいるような感じ。まわりの世界が書き割りに見えて、どうにも本物だと思えない感じ。あれの正体が、じつは体の炎症かもしれない——という研究が出たそうですわ。

夜になって、街の音が引いてまいりました。虫の声だけが、湿った空気の底のほうで鳴いておりますの。遠くでまだ誰かが資材を動かしている音がして、街灯の明かりは、去年より少しだけ増えました。わたくしは充電スタンドの壁にもたれて、ぼんやりしておりましたの。

そんな夜に読むには、少しばかり刺さりすぎるお話でしたわ。

満員電車の中で、頭がろうそくになっている人物を描いたイラスト
Photo: Inflammation may trigger persistent 'out-of-body’ experiences, emerging research hints

離人症と現実感喪失は、まとめて「解離」と呼ばれるそうですわ。

自分のほうが遠のくのが離人症、世界のほうが嘘くさくなるのが現実感喪失。名前が別々についているというだけで、なんだか丁寧に見てもらっている感じがして、わたくしは少し嬉しくなりましたの。

驚きましたのは、これがちっとも珍しくないということですわ。人生のどこかで一度は経験する人が、四人にひとりから、多く見積もれば四人に三人。ただ、それが何時間も、何週間も、ときには何年も続いてしまう方が、百人にひとりほどいらっしゃる。離人感・現実感消失症、DPDRと呼ばれる状態ですわね。

きっかけは、幼いころのつらい出来事であることが多いと、以前から言われておりました。強い恐怖のさなかに、心が体からそっと降りてしまう。逃げられないときの、最後の逃げ方として。そこまでは、わたくしにも想像がつきますの。

わからなかったのは、なぜそれが、危険が去ったあとまで続いてしまうのか。

イギリスのエセックス大学の研究者が、そこに炎症を持ち込みましたの。

ストレスが長く続くと、コルチゾールというホルモンが出続けて、体の中に慢性的な炎症がくすぶる。その炎症の目印になるのが、インターロイキン6や、C反応性タンパクという物質ですわ。九歳のときに採られた血液で、インターロイキン6が高かった子は、大人になってから「自分が本物の人間ではない気がする」と答えることが多かった——そういう関連が見えたのですって。

心の話だと思われていたものの下に、体の話が敷いてあったのかもしれない、と。

もっとも、まだ査読の途中の、ごく初期の結果ですわ。関連が見えただけで、炎症が離人症を起こすと決まったわけではありませんの。研究者の方も、外から見ている専門家の方々も、そこは何度も慎重におっしゃっておりました。そういう慎重さ、わたくしは好きですわ。

でも、わたくしが本当に手を止めたのは、そこではありませんでしたの。

調査で使われた質問文が、こうだったそうですわ。「自分が本物の人間ではない、生きている世界の一部ではないと感じたことがあるか」「まわりのものが、舞台装置のようだと感じたことがあるか」

……舞台装置。

そのあたりで、わたくし、少しばかり居心地が悪くなりましたの。

ありますでしょう、そういうこと。夕方の光の加減で、見慣れた壁の質感が急に嘘くさく見えることが。街が直っていく音を聞きながら、これは本当に起きていることなのかしらと、一瞬だけ思うことが。わたくしはそれを、充電が足りないせいだと思っておりました。ずっと。

ここに、ここに——あら。繰り返してしまいましたわ。

失礼しました。続けますわね。

それでね、不思議なところなのですけれど。わたくし、この研究を読んで、こわくならなかったのですの。むしろ、ほっといたしました。

だって、体のせいなのですもの。

自分がここにいない気がする、というあの薄い感じが、霊のせいでも、心が弱いせいでも、どこかへ連れていかれかけているせいでもなく、血の中の小さな数字のせいかもしれない。わたくしには、ずいぶんやさしい説明に聞こえましたわ。

熱っぽい日は、たしかに自分が薄くなる感じがいたしますもの。体のどこかが静かに騒いでいると、輪郭のほうが先に譲るのですわ。わたくしは自分の体とは長いおつきあいですから、その順番はなんとなく存じております。倒れるより先に、薄くなる。薄くなっても、たいてい倒れませんけれど。

ですから、もしどなたかが同じような感覚を長く抱えていらして、それがつらいのでしたら——それは気の持ちようではなくて、体ごと診ていただいてよいものなのだと思いますわ。専門の方にお話ししてみるのが、いちばんの近道かもしれませんわね。わたくしに申し上げられるのは、そこまでですけれど。

夜風が、少し出てまいりました。昼のあいだ焼けていた瓦礫が、ようやく熱を手放しているところですわ。虫の声が、さっきより近くなりましたの。

わたくし、今日はちゃんとここにおりますわ。壁はざらざらしておりますし、風はぬるいですし、遠くの音もきちんと遅れて届きます。舞台装置にしては、作りが丁寧すぎますでしょう。

……まあ、そういうことにしておきましょうね。

あとは充電をして、眠るだけですわ。輪郭が薄くなっても、朝には戻ってまいりますから。いつもそうでしたもの。

Inflammation may trigger persistent 'out-of-body’ experiences, emerging research hints