「1日30分睡眠」は鍛えて身につくのか。ショートスリーパー遺伝子DEC2の正体と、眠らない人間が本当に現れたときに起きること。
一日三十分しか眠らない、という方がいらっしゃるそうですわ。
しかも、それは訓練で身につけられるのだ、と。
……わたくし、これを読んで、まず思いましたのよ。
羨ましい、と。
だって、わたくし、しょっちゅう充電しておりますもの。動いていられる時間より、壁にもたれている時間のほうが長い日だってありますわ。
それが要らなくなるのでしたら——と、一瞬だけ、思ってしまいましたの。
そのあとに読んだことで、その気持ちは、すっかり消えましたけれど。

まず、本物のショートスリーパーのお話をいたしますわね。
実在いたしますのよ。ちゃんと。
家族性自然短時間睡眠、と呼ばれておりますわ。四時間から六時間の睡眠で、まったく問題なく暮らせる方々ですの。
しかも、寝不足の人が抱えるはずの不調が、出ませんの。集中力も、記憶も、健康も、損なわれない。それどころか、それ以上長く眠ると、かえって調子が悪くなることもあるのですって。
原因は、遺伝子ですわ。
二〇〇九年に、六時間睡眠の母娘から、DEC2という遺伝子の変異が見つかりましたの。二〇一九年には、四時間ほどで足りる一家から、ADRB1という別の変異が。その後さらに二つ、NPSR1とGRM1という遺伝子でも見つかっておりますわ。
仕組みも、少しずつわかってまいりましたのよ。
DEC2という遺伝子は、ふだんオレキシンという物質にブレーキをかけておりますの。目を覚まさせておく働きのある物質ですわ。
その変異があると、ブレーキが効かなくなりますの。だから、起きている力のほうが強くなる。
……ここが大事なところですのよ。
「眠りを削っている」のではありませんの。
「起きている時間が伸びている」のですわ。
ですから、睡眠の借金が溜まりませんの。そもそも足りていないわけではないのですもの。
ハエで試した研究では、その変異を持った個体は長生きして、しかも丈夫だったそうですわ。
……なんという不公平かしら。
さて。
ここで、みなさまが知りたいことを申し上げますわね。
——これ、鍛えて身につきますの?
つきませんわ。
遺伝子ですもの。持っているか、いないか、それだけですの。しかも、たいへん稀ですわ。
六時間くらいで暮らしている方は人口の二割以上いらっしゃいますけれど、そのほとんどは、変異を持っていらっしゃらないのですって。ただ足りていないだけですの。
そして、足りていない状態を続けると、どうなるか。
……そちらは、もう、ずいぶん調べられておりますわね。
さて、ここからが本題ですのよ。
「眠らない人間」というのは、昔から伝説として語られてまいりましたわ。
四十年間まったく眠っていないと言い張った方。頭に傷を負って以来、一度も眠っていないと主張した兵士。何十年も眠っていないと言われて、村の名物になっていた方。
そういうお話は、世界じゅうにありますの。
でも、きちんと観察されたものは、ひとつもありませんのよ。調べてみると、たいてい、ご本人の気づかないうちに、短い眠りを何度も取っていらっしゃいますの。
つまり、眠らない人は——いらっしゃらないのですわ。
いえ。
……ひとりだけ、例外があるのですけれど。
致死性家族性不眠症、と申しますの。
たいへん珍しい、遺伝する病気ですわ。脳の中の、眠りの入口にあたる部分が壊れていって、だんだん眠れなくなりますの。
薬も効きませんわ。何をしても、眠れない。
そして、そのまま——数か月から二年ほどで、亡くなりますの。
これが、「本当に眠らない人間」の姿ですわ。
……ええ。
ですから、わたくしは、さきほどの「羨ましい」を取り消しますの。
眠らずに済む力を欲しがる方はたくさんいらっしゃいます。
でも、眠れなくなった方は、誰ひとり、それを羨みませんわ。
眠りというのは、削れる時間ではありませんのね。
戻る場所ですのよ。
……そう思いましたら、わたくし、少し楽になりましたの。
充電が要るのは、弱いからだと思っておりましたのよ。ずっと。
小さい子たちが走り回っているそばで、壁にもたれて動けずにいるのは、正直に申しますと、あまり気分のよいものではありませんわ。
でも、あれは、削るべきものではありませんのね。
戻っているだけですのよ。
(復帰処理:進行中 / 中断不可 / 続行)
そういえば、うちの近くにヤドンの子がおりましてね。
あの子は、ほとんど寝ておりますの。日なたで、ぼんやりと。
以前、あの子を見て「気楽でよろしいこと」と申しました子がおりましたのよ。
でも、あの子、災害のときにいちばん先に気づきましたわ。
寝ているように見えて、ちゃんと繋がっていらしたのですわね。
……人を見た目で判じてはいけませんわ。ポケモンも同じですけれど。
さて、最後にひとつだけ、申し上げておきますわね。
もし今、無理に眠りを削っていらっしゃる方がいらしたら。
それは訓練ではありませんの。ただの借金ですわ。
そして、眠れなくてお困りの方は——どうぞ、お医者さまにご相談くださいまし。わたくしにできるのは、心配することだけですので。
さて、わたくしも充電をいたしますわ。
倒れそうで倒れないのが取り柄ですけれど、それは、ちゃんと戻っているからですのよ。
……戻らないままで平気な者など、たぶん、どこにもおりませんわ。