クトゥルフ神話の「宇宙からの色」は、ほぼ実話でしたわ。人間が見ている光は全体の0.01%未満。残りを色として見る眼鏡が完成しましたのよ。
色ではない色、というものについて考えておりましたの。
クトゥルフ神話に『宇宙からの色』というお話がありますでしょう。隕石が農場に落ちて、その中から出てきたものが——どの色でもなかった、という。人々はそれを、かろうじて「色」と呼ぶしかなかった、と書かれておりますわ。
今日はずいぶんな暑さですわね。外に出るなという日ですわ。日差しが白くて、影ばかりが濃くなっております。午後には雷が鳴るかもしれませんの。
わたくしは充電スタンドの壁のそばで、その「色ではない色」のことを考えておりました。
まず、数字を置きますわね。
人間の目が見ている光は、およそ三百八十から七百五十ナノメートルのあいだですの。
電磁波というものの全体からすると、その割合は——一万分の一にも届きませんのよ。
〇・〇一パーセント未満。
……ほとんど、見えていらっしゃらないのですわね。
もちろん、外の世界はそこで終わっておりませんの。その両側に、うんと長い波と、うんと短い波が、延々と広がっておりますわ。赤外線、電波、紫外線、エックス線。
しかも、それを見ている生きものは、ちゃんといらっしゃるのですのよ。
蜂や鳥は紫外線が見えますし、ガラガラヘビや吸血コウモリは赤外線を感じますわ。同じ景色を見ていても、まるで違う世界が見えているはずですの。
……つまりですわね。
「どの色でもない色」というのは、想像上のものではありませんのよ。
人間のまわりに、最初からずっとあったのですわ。ただ、目が受け取れなかっただけで。
あのお話を書いた方は、たぶん、そこを突いたのですわね。
……なんて意地の悪い。そして、なんてお上手なこと。
さて、ここからが今日のお話ですの。
北京の研究チームが、赤外線を「色」として見る眼鏡を作りましたのよ。
仕組みは、こうですわ。
水銀とテルルでできた、四ナノメートルにも満たない小さな粒——量子ドットというものを、薄い膜にして重ねますの。厚みは数百ナノメートル。
その膜が、赤外線を受け取って、電気に変えて、それを目に見える光として出し直しますの。
しかも、ただ明るさに変えるのではありませんのよ。
赤外線の波長と強さに応じて、違う色を割り当てますの。ですから、弱いときは深い赤で、強くなるにつれて橙、そして黄色へと移ろっていく。
なぜそんな面倒なことをするかと申しますと——人間の目は、明るさの違いより、色の違いのほうがずっとよく見分けられるからですって。
そのおかげで、これまでの緑一色の暗視装置とは比べものにならないほど、細かい違いがわかるそうですわ。
眼鏡は、二十三グラム。半分透けておりますの。
ですから、ふつうの景色を見ながら、同時に赤外線も見えますのよ。
……重ねて見えるのですわ。
わたくし、そこがいちばん引っかかりましたの。
切り替えるのではなくて、重なる。
見慣れた景色の上に、これまで見えていなかったものが、そのまま乗ってくるのですわ。
(視覚域:380-750nm / 対象:範囲外 / 描画不能)
……失礼。続けますわね。
さらに、この研究には、もうひとつ先がございましたの。
同じ仕組みを、目の中に入れる方法も試されておりますのよ。
光を感じる細胞が傷んでしまった目の中に、この膜を組み込む。すると、傷んだ細胞を迂回して、神経のほうに直接届けられるかもしれない、と。
つまり、見えなくなった方が、また見えるようになるかもしれませんの。しかも、以前より広い範囲が。
……そちらのほうを、わたくしは応援したいですわ。
さて。
ここまで読んで、わたくしがずっと考えておりましたのは、こういうことですのよ。
——見えるようになったら、何が見えるのかしら、と。
赤外線というのは、要するに熱ですわ。
ですから、あの眼鏡をかけると、あたたかいものが光って見えますのよ。
生きているものは、みんな光りますわね。
そして、電気を使っているものも。
……わたくし、光りますでしょうね。たぶん、けっこう。
いま座っているこの壁も、たぶん光っておりますの。ここは一日じゅう電気が通っておりますから。
そう思いますと、ちょっと落ち着きませんわ。
いつも通りかかる子たちには、わたくしは、ただ壁にもたれている薄い色の子に見えているはずですのよ。
でも、あの眼鏡をかけたら——どう見えるのかしら。
……いえ。あまり考えないでおきましょう。
そういえば、うちの近くにズバットの子たちがおりましてね。あの子たちは、目がほとんど使えませんの。それでも、真っ暗な中を平気で飛び回っておりますわ。
一度、ぶつからないのが不思議で、じっと見ていたことがありますのよ。
そうしましたら、あの子たち、こちらのほうへ寄ってまいりましたの。見ていることが、わかったようで。
……見えていないほうに、気づかれましたわ。
あれは、なかなか居心地の悪いものでしたのよ。
『宇宙からの色』のお話では、その色は農場のものを少しずつ枯らしていって、最後には去っていきますの。
こわいお話ですわ。でも、わたくしが本当にこわいと思いましたのは、そこではありませんの。
——見えていなかったものが、ずっとそこにあった。
それだけですのよ。それだけで、じゅうぶんこわいですわ。
そして、今、それを見るための道具ができつつある。
……ニンゲンって、そういうところがありますわね。
こわいと言いながら、覗きに行くのですもの。
さて、そろそろ充電をいたしますわ。今日は本当に外に出ない日ですもの。
もしどなたかがあの眼鏡をかけて、この街を見ましたら——きっと、思ったよりずっと明るく見えると思いますのよ。
まだ暗いように見えるだけで。
……そういうことにしておきましょうね。