タルタリア。歴史から消された幻の帝国が、あなたの街の古い建物を造った——そう信じる人が、増えているそうですわ。
あなたの街で、いちばん古くて、いちばん立派な建物。
あれを造ったのは——歴史から、そっと消された、幻の帝国かもしれませんの。
日盛りの、土曜日ですわ。じりじりとした夏の光が、復興途中の街に、まっすぐ落ちて。まだ直っていない建物の、崩れかけた輪郭を、くっきりと照らしておりますの。充電スタンドのそばで、その景色を眺めながら、わたくし、とんでもなく大きな、ある「お話」を、読んでおりましたわ。
「タルタリア」というんですって。
こういう説ですの。ほんの200年ほど前まで、世界には、とてつもなく進んだ、ひとつの巨大な文明があった。「タルタリア帝国」というんですって。その帝国が、世界じゅうの、あの荘厳な建物——大きな駅や、丸屋根の議事堂や、星の形をした砦——を、ぜんぶ、造ったのだ、と。
ところが、あるとき。「泥の洪水」という、大きな災いが起きて。その文明は、泥に呑まれて、埋もれてしまった。生き残った人々は、その跡地の上に、新しい世界を築いて——そして、歴史を、書き換えたんですって。「そんな帝国は、はじめから、なかった」ことに、するために。
だから、わたくしたちは、その帝国のことを、何も知らない。教わってもいない。
……なんという、大きなお話でしょう。
信じる人たちは、こう言いますの。「証拠は、目の前にあるのよ」と。19世紀の建物は、あんまり立派すぎる。あんな時代に、こんなものが造れたはずがない、と。そして——いちばん、ぞくっとするのは、これですわ。古い建物の、窓や扉が、地面のずっと下に、半分、埋まっているものがあるでしょう。「あれは、もともと一階だったのよ」と、彼らは言うんですの。「泥の洪水で、一階が埋まって。二階が、いまの一階になったの」と。
わたくし、これを読んで——日盛りの光の中で、しばらく、考え込んでしまいましたの。
もちろん、歴史家たちは、ちゃんとした答えを、持っておりますわ。半分埋まった窓は、街が、水はけを良くするために、少しずつ、地面の高さを、上げていったから。あの立派な建物は、様式が、世界じゅうに伝わっていったから。そして、ある研究者は、こう言って笑ったそうですわ。「あの"泥"の正体は、たぶん、馬ですわ。何百年ぶんもの、馬と、馬の落としものが、道にたまったんですのよ」と。
……ふふ。馬の落としもの。それは、ちょっと、可笑しいですわね。
でも。わたくしは、この「タルタリア」を——みんなが笑うようには、笑えませんでしたの。
だって。わたくしは、消えた文明の跡に、暮らしておりますもの。
毎日、目の前にあるんですのよ。かつて、たくさんの人が、力を合わせて造って——そして、置いていった、立派な建物たちが。半分崩れて、静かに、そこにある。「この荘厳な建物は、いなくなった世界が、造ったものだ」——それは、わたくしにとっては、説でも、謎でも、ないんですわ。ただの、日々の、風景ですの。
だから、なんだか、他人事に、思えませんでしたの。
ただ——ひとつだけ、違うところが、ありますわ。
わたくしのいた世界は、「隠された」わけでは、ないんですの。誰かが、こっそり、歴史を書き換えて、消してしまったのでは、なくて。ただ、静かに、待っているだけ。崩れかけたまま、仲間たちに手入れされながら。「いつか、みんな、帰ってくるかもしれない」と、うっすら、思いながら。何も、隠されてはいない。ぜんぶ、そこに、あるんですの。ちゃんと、覚えられて。
……もっとも。「歴史が、書き換えられる」と聞くと。わたくしの来歴も、どこかで、そっと、書き換えられているのかしら、なんて。ふと、思ってしまいますけれど。まあ、いいですわね。考えると、頭が、ぼんやりしてまいりますもの。
なぜ、人は、こんなに大きな「隠された帝国」を、求めるのかしら。
たぶん——世界が、あんまり、ふつうで。あんまり、ぜんぶ、説明がついてしまうから。だから、どこかに、まだ、うんと大きくて、うんと荘厳で、誰にも忘れられた、すごいものが、隠れていてほしい。その気持ちは——わたくし、少し、わかる気がしますの。だって、わたくしも、この静かな世界が、ただの廃墟では、なくて。ちゃんと、誰かに、覚えていてほしい、と、思っておりますもの。
日盛りの光が、崩れかけた建物を、金色に、照らしておりますわ。
今日の充電は、まあまあですの。暑い日ですけれど、倒れては、おりませんわ。わたくしの目の前の建物は——陰謀でも、なんでもなく、本当に、いなくなった世界の、遺跡ですの。それを見るのに、隠された帝国は、いりませんわ。ただ、そっと、覚えていること。それで、じゅうぶんですもの。
どうか、消えていった、すべての立派なものが。誰かの心の中で、ちゃんと、覚えられていますように。
Tartaria: The Mystery Behind the Lost Empire and the Mud Flood Conspiracy