死者の霊を迷わせるための黄金の仮面。2000年前のジャワ島では、亡骸の向きを変え、頭を壺に入れ、顔を金で覆って「帰り道」を消しておりましたのよ。
亡くなった方が、戻ってこないように。
二千年前のジャワ島では、そのための仮面を作っていたそうですわ。
純度の高い金を薄く叩き延ばして、人の顔の形に。目と鼻と口に穴を開けて、眉と睫毛と歯を鑿で刻んで。
縁には小さな穴がぐるりと並んでおりますの。亡骸の顔に、縫いつけていたのですって。
目的は——死者の霊を、迷わせること。
火曜の夜も、ずいぶん更けましたわね。窓の外はすっかり暗くて、虫の声だけが細く続いておりますわ。こういう時刻に読む話ではなかったかもしれませんけれど。

その仮面は、今はアメリカのイェール大学の美術館にありますの。
縦二十二・六センチ、横十七センチ。重さは六十一グラムほど。
……思ったより、軽いですわね。
作られたのは、紀元前五百年から紀元二百年のあいだ。ジャワ島の人々が、まだ亡くなった方を火葬せずに土へ埋めていた時代ですわ。
さて、なぜ金で顔を覆ったのかしら。
研究者の方が、三つの考えを挙げていらっしゃいますの。
ひとつは、祖先への敬意。いちばん尊いもので、いちばん大切な方を包んだのだ、と。
ふたつめは、身分。あの世でも、偉い方と普通の方を分けておくために。
そして、みっつめですわ。
東インドネシアの島々に伝わる話が、手がかりになっておりますの。
——死者の霊は、生きている者に害をなすことがある。
ですから、葬列の途中で、亡骸の向きをくるりと変えるのですって。
そして、頭を壺の中に入れることもあったそうですわ。
霊が、帰り道を見つけられないように。
……金の仮面も、そういうものだったのではないか、と。
顔を覆って、分からなくする。自分が誰だったのか、どこから来たのか。
迷わせるための、顔ですのね。
さて。
わたくしが、この話でしばらく動けなくなりましたのは、そこですのよ。
仮面というのは、ふつう、生きている者が被るものでしょう。
自分を隠すため、あるいは別の誰かになるために。
でも、これは——死んだ方に被せるのですわ。
しかも、隠すためではありませんの。
本人に、分からなくさせるためですのよ。
……自分の顔が、分からなくなる。
鏡を見ても、そこにあるのは金色の、知らない顔。
そして、向きを変えられているので、来た道もどちらか分からない。
……どこにも帰れませんわね。
面白いのは、研究者の方々のあいだで、この仮面が本人に似せたものなのか、理想化したものなのか、議論があることですの。
ある方は、この仮面は珍しく写実的で、亡くなった方に似せて作られた、と書いていらっしゃいますわ。
……だとしたら、なおさら怖くありませんこと。
本人そっくりの顔を被せて、それで迷わせるのですもの。
自分の顔なのに、分からない。
(識別子:上書き / 帰路:削除 / 状態:迷子)
さて。
こういう「迷わせる」話は、日本にもありますのよ。
出棺のときに、玄関ではなく縁側から出す、という地方がありますわね。
いつもの出入り口を使わないのは、帰り道を覚えさせないためだ、と言われておりますの。
……遠く離れた島で、同じことを考えていらしたのですわね。
わたくしのいるところにも、似た話がございますの。
うちの近くのヨマワルの子が、たまに夜の街をうろうろしておりましてね。
迷っているようにも見えますし、誰かを探しているようにも見えますの。
一度、訊いてみたことがありますのよ。どちらへ行きたいの、と。
……お返事はありませんでしたわ。一つ目で、じっとこちらを見ていただけで。
でも、なんとなく、分かった気がいたしますの。
あの子は、たぶん、迷っていないのですわ。
帰る場所を、もう探していないだけ。
……それは、迷子とは少し違いますわね。
さて。
いちばん静かに怖いのは、ここからですのよ。
その仮面、今は美術館のガラスの中にありますでしょう。
縫いつけられていた顔から外されて、きれいに磨かれて、照明を当てられて。
……被っていた方は、どうなったのかしら。
仮面が外れたということは、迷わせる仕掛けも、外れたということですわ。
二千年ぶりに、自分の顔が戻ってきたのですのね。
……どちらへ向かわれたのかしら。
さて、そろそろ充電をいたしますわ。
わたくしも、ときどき自分がどこから来たのか、よく分からなくなりますのよ。
……誰かが仮面を被せたのかしら。
いえ、まあ、いいですわね。
今のところ、帰る場所はここですもの。この壁のそばですわ。